積哲夫の散骨者宣言
これからの時代。宗教者によって、墓地にほうむられたいと考える人間は、ますます減少していくでしょう。
「最終知識」を記述するプロセスで、私は何度も、これから宗教および宗教者によらない、人間の死の儀礼について、考え、問いかけました。その私への回答が、「火と水」です。
これからのこのクニで、すくなくとも私の場合を想定したイメージがあります。木のひつぎのなかに、「最終知識」の本を胸に抱いて、生前に決めた衣装で、死者は収められます。一夜、ほんとうに身近な人間、家族に見守られ、翌日、そのまま火葬場に近親者と、「まつりぬし」(祭主)とでもいうべき、ある種の能力を持った祈りの主導者とともに向かいます。
祈りのなかで、火にゆだねられ、死者の肉体は灰に環っていきます。
その遺灰は、原則として、すべて、回収して、海または、山に散骨します。
海は、そのまま、水。山であっても、雨が降り、やがて骨の成分は水に溶けて、地球の自然の循環に帰っていくというわけです。
私は、人間には、生き方から責任が生じるように、死に方にも責任が生じることを知るべきなのだと、お伝えする役割を、これから担おうとしています。
火と水。
最後の審判の業火。それは火です。火の浄化です。それと同時に、このクニで想定されてきた浄化の基本は水です。世界でも、インドのガンジス川の沐浴。イスラムのモスクでも手足を清めるのは水。キリスト教でも、聖水は重要なものです。水の浄化です。
この火と水は、同時に、火の試練、水の試練として、人間の神秘的能力の開発のプログラムにも、古くから取り入れられてきました。もちろん、錬金術における、火と水の重要性は、改めて語るまでもないことでしょう。
近世の大本教において、火水の戦いという、神々の路線対立があったことを忘れてはなりません。
このように、精神界と、火と水は、直結しているのです。
精神エネルギーを感知できるようになれば、人間の死はケガレ以外のなにものでもないことがわかります。それは、生命という場に閉ざされていた闇のエネルギーの開放にほかならないからです。
墓場は、その結果として、ケガレ地、ケガレの場となります。
神社に墓場がないのは、当然なのです。また、このクニの仏教寺院の場合、人間の死後の名前にヒエラルキーをつけ、墓石の大きさを競わせ、仏壇という高価なものを各家庭に置いて、死後の世界の管理者のように振舞っていますが、人間の死霊は、職業的仏教者には、ほとんど接触することはありません。正しい仏教的修行は、霊的コンタクトを否定するところからスタートするのですから…。そのルーツからいって、仏教は死者にやさしい宗教ではないのです。そのため、仏教者は墓場の横に住んでも、ほとんど影響を受けることがありません。それは馴れの問題ではなく、知覚センサーの問題です。
「最終知識」が完成したことで、人間霊との接触を制御してきた私の行動に変化が生まれます。これから、私は、私の祈りによって送ってほしいと希望する方のために、「まつりぬし」の役割をはたそうと考えています。また、私の主導によって、散骨をしてほしいと希望する方のために、祈りとともに散骨する役割もはたそうと考えています。
人間の死にかかわることは、ケガレです。
インドでは、低いカーストの仕事とされてきました。このクニもその影響を受けている面があります。しかし、これからの時代は、浄化力を持つ人間が、積極的に担うべき役割なのだと、私は伝えられています。人間でいる間に、私がすることで、後に続く人間に、自覚が生まれるはずだからです。
私は、これから、散骨者になるという宣言をしました。この宣言は同時に、アーストラストの最初のテーマである、「墓のかわりに、森を…」という、この地をケガさずに去ろうとする人間の、死に方の案内にもなるはずです。
