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まつりぬしの原点(アーストラスト)

おすすめ:苦しい時に読む〈積哲夫のことば〉

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まつりぬしの原点(アーストラスト)

精神学協会会長:積 哲夫
アーストラスト(まつりぬし) / 20072008

アーストラスト2007vol.2

21世紀のメメント・モリ(死を想え)

百年生きたとしても、人間は、すぐに死に到ると感じるように、たましいの時計がプログラムされている…。
私は、人間がすぐに死ぬものであることを忘れた結果、この種の一員であることが恥しくなるような、欲望の暴走がはじまったのだと考えています。
仏教、とくに原始仏教といわれるような、2500年前のブッダの教えに近い仏教では、生きている人間のきたなさをくり返し教え、死んでさらにきたないものへと変質していく、生物としての本質から、形而上的に脱出しようとする思考訓練を、修行として伝承してきたと、いってよいでしょう。
それは、欲望からの解放という、新しい欲望の発見につながりました。その新しい欲望を、私は悟りと呼びます。ブッダの到達した知の領域が、この宇宙との一体化、宇宙の知を共有する意識の層への人間レベルからの、突破であったということを、私は伝えられ、「最終知識」に記しましたが、それは、通常の人間が「悟り」という言葉から思い浮かべるものとは、本質的に異質なものなのです。
「悟り」にも「小悟」から「大悟」に到る各段階があるという、今日、知られている普通の仏教的解説は、人知の限界を示しているということです。
仏教は、人知です。ブッダは自らの能力で知った人間でした。だから、人知なのです。ただ、その人知は、当時の神々の知を超えるレベルのものだった…。
そこで、ブッダは、人間の生と死のプログラム。極論するなら、いくたびの生をくり返しつつ成長していく「たましい」のプログラムの存在を見たのです。この学びを一回の生で終了させることを欲するものへの教えが、仏教の本質です。そこからは転生しつつ、人間を導くブッダの生まれ変わりなどという怪しい人間が宗教的指導者となるというようなストーリーは、本来生まれようがないのです。ところが、インドでは、ブッダは、ヴィシュヌ神の生まれ変わりのひとつの姿とされるような、解説があります。しかし、歴史をよく考えてください。ヒンドゥー教は、仏教に勝利して、いまのポジションにいるのです。それは、神々が、人間に勝利したことを示しています。
何故か。
神々は、くるべきときがくるまで死なず…。
一方で人間は、いかに優れた能力を持つものでも、百年もまたず死に到る…。
人間が勝利したとしても、それは一時的なものに過ぎません。この神々と人間の関係は、日本でも、よく知られていました。人間が盛んなときには、神々もこれをさけて、人間が定まったときには、神々がこれを撃つというルールです。
それは「断じて行なえば、鬼神もこれをさく」というような言葉で伝えられてきました。それほど、人間には、ちからがあるわけです。その人間のちからが、ほぼ究極にまで達したのが、現代という時代です。地球の未来を、人間という生物の種が決めてしまうという、途方もない傲慢さに、多くの人間は疑念すら抱いていない時代。人間は、すぐに死ぬものであることを忘れてしまったかのように見えます。
しかし、その見たくないものを見ないという、行動原理は、もうすぐ強制終了させられようとしています。
日本の社会で進んでいる団塊の大量リタイア、少子高齢化の社会の未来というのは、まさに、死に向き合って生きる時代の到来を示しているのです。そこでは、死に方の責任が問われます。
この2007年からのアーストラストのテーマは、その死に方です。その人間が人生をどう生きたかが、死に方であきらかになることを、もう、人類は正しく知るべきなのです。このプログラムには、価値観の転換も必要ですし、環境問題も、医療も、そして、それらを統合するビジネスレベルでの経済性も政治レベルでの取り組みも含まれます。
その考え方を、これから、お伝えしていきます。
もちろん、このプロジェクトは、このサイトや精神学協会のスタートと同様に、私というひとりの人間の意識から出た、構想ではありません。
この方向という、明確な指示を伝えてきたのは、私をつかさどる存在であり、それに協力する神格があり、私は解説者、あるいは、いま生きている人間に対する提案者としてここにいます。
これがアーストラストの序章です。次から、プログラムの解説がはじめられるでしょう。もう、みなさん想定されているとは思いますがご期待ください。