ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教は、基本的に遺体をそのまま棺桶に入れて地中に埋める土葬です。これらの一神教に共通する土葬文化の背景には、「復活の日」を待つという宗教的意味があります。この世の終わりのとき、悪魔が神に敗れ去り、再び生を与えられた死者たちは、神による「最後の審判」を受け、神の国に行くか地獄に落ちることになります。その復活の日のために死後も生前の姿をそのまま残しておかなければならないのです。エジプトのカイロには、一見普通の住宅街に見えるけれども人影のない街があります。住居には屋根のないものが多く、部屋の中の土地には簡素な墓標があり、イスラム教徒が埋葬されています。この街型の広大な墓地地域は、実にカイロ市の面積の6%以上を占めるそうです。ここにも「復活の日」まで遺体をそのまま残そうとするイスラム教の葬儀思想が感じられます。キリスト教の墓地はハリウッド映画などでおなじみのように、地中に穴を掘り、そこへ遺体を入れた棺を埋め、石のプレートや十字架を地上に建てるものです。ユダヤ教の墓地も、地上の墓石がベンチのように少し厚みがあるという違いはありますが、キリスト教と似ています。スタイルの違いはあれ、みな「復活の日」のために土葬されているわけです。ところで、土葬文化の視点で火葬を見るととても恐ろしい行いに思えることでしょう。愛する故人の身体を焼いてしまうのですから。キリスト教の話で言いますと、中世のヨーロッパで魔女狩りが横行したとき、魔女とされた女性たち、あるいは異端とされた人々は火あぶりにされました。生きたまま火あぶりにされるということが、日本人の目には苦痛の恐怖として映るかもしれませんが、キリスト教徒の目には、それだけではありません。自分が火葬されることを認識しているという恐ろしさもあるのです。復活できないような殺され方をするのがわかるわけです。その絶望感たるや、いかほどのものだったでしょう。たとえ現代であっても、もし、この復活思想をベースにしたユダヤ教、キリスト教、イスラム教の信者がその意思に反して火葬などされたらどう思うでしょう。これもまた、日本的に言えば浮かばれない霊となるでしょう。仏教徒やヒンドゥー教徒の死者にとっては当たり前の火葬が、一神教徒の死者にとっては最大の責め苦となるわけです。逆もまた真なりで、火葬文化から土葬を考えると、愛する故人が朽ち果てて腐乱していくのが耐えられないと思うこともあるでしょう。結局のところ、生前の宗教思想によって死に方の良し悪しの感じ方も変わるということですね。
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