墓地のことをあまり否定すると、死者を手厚く葬り、花をたむけたいという自然な感情に反すると思われるかもしれません。たしかに人類は古くから死者を放置せず土葬するという習慣を持っていました。今から約4万年前に出現したとされるクロマニヨン人はすでに死者を土葬し、石を積み上げたり、花をたむけたりした痕跡があるようです。1978年のTVアニメで「未来少年コナン」という作品があります。アレグサンダー・ケイ原作の「残された人びと」をもとにしたSF冒険物語です。この中で、少年コナンは離れ小島で「おじい」と呼ぶ初老の男性とたった2人で暮らしています。そのおじいが亡くなったとき、コナンは悲しみのなかで、おじいを土葬し、石を積み上げ、その前に小さな野花を植えます。何もない孤島ではそれがもっとも自然な行為だろうと思えます。おそらく現代人であれ、大自然の暮らしの中に放り出されたらコナンとまったく同じことをするのではないでしょうか。それはおそらく洋の東西を問わず太古から実際に行われてきたことでしょう。しかし、これらの自然発生的葬送法と、現代のお墓は違います。なぜなら現代のお墓は、遺体や遺骨の置き場として土地を占有して、永遠性を求めるものだからです。永遠にそのお墓を維持したい、そこにあり続けたいという施設だからです。逆に、太古から行われてきた、直接、遺体を土に埋める方法は、ある意味でもっとも根源的で一般的な自然葬であるとも言えるのです。現代の散骨のように火葬していないので、遺灰をまくというかたちをとっていないだけで、死者を大自然に帰そうという思想は共通しているのです。つまり死者はまた地球の一部となることができるのです。石を積み上げ花をたむけるのは死者を埋葬するときだけで、それを未来永劫、維持管理しようとしてするものではありません。あなたは自分の墓を誰かにずっと維持管理してほしいと思っていますか。人間は、大きな家がほしいと思う所有欲の延長で、死後も大きな土地と大きな墓を「自分のもの」として占有したがるのかもしれません。しかし、それがどれほど意義のあることでしょうか。あえて仏教的な表現をすれば、死に際してもなお、「自分だけの立派な墓を持ちたい」という煩悩から逃れられないと皮肉を言われても仕方ないのではないでしょうか。ヒマラヤ登山の案内人であるシェルパは、山中のある場所に石を積み上げ、遺体はないのですが遭難死した登山者たちのために冥福を祈ります。山のどこかで眠る死者のためにです。海でなくなった人にささげられる花束はたいてい海に投げ込まれます。落ち着いて考えてみると、人は遺体・遺骨置き場を占有せずとも、死者の冥福を祈り、花をたむけることはできるのです。
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