ヒンドゥー教徒が多くを占めるインドでは、火葬場がガンジス川(ガンガー)のほとりにあり、亡くなった人々の遺灰を川に流します。火葬費用のない人はそのまま遺体を流します。ガンジス川はガンガー女神そのもので、聖なる川であり、現世の罪と穢れを洗い流す場所です。今でも多くの巡礼者がガンジス川沿いの聖地を訪れ沐浴を行っています。すぐそばで、洗剤で洗濯をする人もいれば、死体を流す人、歯を磨く人、沐浴する人がごったがえしているわけです。ヒンドゥー教徒にとって、この川のほとりで死を迎えることは理想的な最後の迎え方であり、死者を川へ流すことは最高の敬意を表すものなのです。紀元前5世紀ごろに仏教が興るはるか以前から連綿と続いてきたバラモン教の影響濃いヒンドゥー教では、三世転生思想がその底流にあり、現世で少しでも良い行いをすれば来世で良い人生がおくれると信じられています。この世にかたちあるものを残さず来世に旅立つのが理想とされ、魂の抜け殻である死体も自然に帰すのがもっとも良いとされるのです。そのため、火葬場やガンジス川に流された遺体を観光客が写真におさめようなどということをすればヒンドゥー教徒の怒りをかってしまうことになります。不敬であり、写真とはいえ現世にかたちあるものを残してしまうからです。来世に生まれ変わるはずですので、もちろん墓の必要はありません。もしヒンドゥー教徒が、死後はガンジスに帰りたいと遺言していたにも関わらず、どこか内陸部で火葬され地中に埋められたら、その魂は安寧を得られるでしょうか。きっと悔しさで思いを残し、われわれの言う幽霊のごとき存在になってしまうでしょう。かたちのあるものを残さずに死にたいというところが、アーストラストの概念と似ているからという理由だけで、このお話をしているわけではありません。ヒンドゥー教徒が信じた理想的な死のあり方を達成したあとに得られる死後の世界は、おそらく彼らのイメージしたものに近いものなのではないでしょうかと言いたいのです。それは日本人が死後に垣間見るかもしれない死後の世界とは基本的に違うものでしょう。もし日本人の葬儀方法に基づいて、彼らを、生前に「納得」していない墓に納め、仏教のお経をあげるという扱い方をすると、少なくともヒンドゥー教徒にとっては冒涜でしかないわけです。そのような宗教観の違いを知った上で、彼らの考える死後の世界と日本人が考える死後の世界を比べて、どっちの死後の世界が本当だ!などと議論することは誰が考えても馬鹿げた話だと考えるでしょう。なぜ、そう思うのでしょうか。
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