時間との戦い
たとえば、今日の世界の富と貧困、支配する者と支配される者の関係。それらは、世界を植民地として切り分けた、ある時代の文明の負の遺産として、現在まで引き継がれてきたものです。
イギリスの産業革命のときに、大量の貧者を生み出した土地の囲い込みと、同じメカニズムが、現代の中国で、ひと握りの富裕層を出現させています。
政治権力は、土地の所有権のルールをどのようにでも変化させることができ、価値を高めることも、無価値にすることもできます。
このクニは、原則的には、明治に到るまで、公地公民制だったのであり、大名といえど、その領地はもとより、住居であったお城も預りものという位置づけでした。
明治の廃藩置県が予想されたほどの大混乱を生じなかったのは、支配階級である武士の価値観に、マネーより、土地より、重要なものがあるという教育が徹底されていた結果にほかなりません。この精神文化の遺産が消滅してしまったために、いまのこのクニの漂流があるのです。
すくなくとも、江戸までのこのクニの文化は、マネーと政治的権力を分離しておくという英知を持っていました。
世俗の富と、権力は、残念ながら、民主主義という制度のもとでは、それを支える市民社会の成熟と、市民ひとりひとりの自覚なしには、分離しておくことが困難です。
いま、このクニの社会は、所得の格差だけではなく、共同体意識の崩壊、教育の荒廃というように、末期的な状況です。それと反映するかのように、山村部での耕作放棄地の拡大など、国土の荒廃も進んでいます。
この現状を回復するためには意識の転換が必要なのですが、その転換のためには、土地の所有制そのものを疑うという姿勢が求められているのでしょう。
イスラムの文化圏においては、神に捧げられた公共的なもの、たとえば、バザールのような施設が長い歴史のなかで蓄積されてきました。その結果、かつてのイランのパーレピ王朝のような強圧的な政治にも、対抗できるような、勢力を宗教界は保持できたのです。
いまの世界は、そうした歴史的文化の重層性を持つ価値を無視して、マネーによる統合を進めることの困難さに直面しているのです。文化は、生命と同じように多様性を持たなければ、行きづまります。いまの世界は、植民地時代の大英帝国からアメリカという英語の文化によって、コントロールされています。この英語の文化は、コンピュータの文明とイコールなものとなっていますが、それが、永遠に続くことはないのです。
ことしの2月は、いままでとは違うペースで、いろいろなことが生じ、たましいのスイッチが入ることを実感する人間も増えているようです。
その先に、このクニの意識の変化が、地球の環境の変化に役立つような現実の技術や経済に結びつく結果になるようなハタラキをする場が待っています。
精神学協会が、現実の場でハタラク人間のためのアソシエーションであり、そういうハタラキをする人間を育てる場であることが、これから実証されていくでしょう。
いま、私の周囲で、その準備が着々と進んでいます。
