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本テキストに収められている文章は、
約二十年前、「アーストラスト」という概念のもとに提唱され、
書き継がれてきた四十編を超える言葉の集積です。
これらの言葉と思想は、時を経た現在においても、
日本まつりぬし協会の活動理念へと確かに受け継がれ、通じるものです。
ここに改めて、まつりぬしのテキスト(心得)として、
その全文を掲載いたします。
人間は、生きている間に地球の生態系・生命圏に大きな負荷をかける存在です。それと同時に、スピリチュアルな活動によって、精神圏にも次の世代へ負の遺産を残していく可能性が高い存在でもあります。物資的身体はちりに帰ります。意識体としての人間のたましいに、お墓は必要なのでしょうか。
それは、精神的存在であることを自覚した人間の当然の自問でしょう。私は、「最終知識」を記すはるか以前から、人生の最終目標を、お墓を残すより森を残そうという運動<アース・トラスト>に置いてきました。
このコーナーは、概念としての<アース・トラスト>とそれを現実化するためのプログラムを考える場です。
2006年4月17日積哲夫記
これからの時代。宗教者によって、墓地にほうむられたいと考える人間は、ますます減少していくでしょう。
「最終知識」を記述するプロセスで、私は何度も、これから宗教および宗教者によらない、人間の死の儀礼について、考え、問いかけました。その私への回答が、「火と水」です。
これからのこのクニで、すくなくとも私の場合を想定したイメージがあります。木のひつぎのなかに、「最終知識」の本を胸に抱いて、生前に決めた衣装で、死者は収められます。一夜、ほんとうに身近な人間、家族に見守られ、翌日、そのまま火葬場に近親者と、「まつりぬし」(祭主)とでもいうべき、ある種の能力を持った祈りの主導者とともに向かいます。
祈りのなかで、火にゆだねられ、死者の肉体は灰に環っていきます。
その遺灰は、原則として、すべて、回収して、海または、山に散骨します。
海は、そのまま、水。山であっても、雨が降り、やがて骨の成分は水に溶けて、地球の自然の循環に帰っていくというわけです。
私は、人間には、生き方から責任が生じるように、死に方にも責任が生じることを知るべきなのだと、お伝えする役割を、これから担おうとしています。
火と水。
最後の審判の業火。それは火です。火の浄化です。それと同時に、このクニで想定されてきた浄化の基本は水です。世界でも、インドのガンジス川の沐浴。イスラムのモスクでも手足を清めるのは水。キリスト教でも、聖水は重要なものです。水の浄化です。
この火と水は、同時に、火の試練、水の試練として、人間の神秘的能力の開発のプログラムにも、古くから取り入れられてきました。もちろん、錬金術における、火と水の重要性は、改めて語るまでもないことでしょう。
近世の大本教において、火水の戦いという、神々の路線対立があったことを忘れてはなりません。
このように、精神界と、火と水は、直結しているのです。
精神エネルギーを感知できるようになれば、人間の死はケガレ以外のなにものでもないことがわかります。それは、生命という場に閉ざされていた闇のエネルギーの開放にほかならないからです。
墓場は、その結果として、ケガレ地、ケガレの場となります。
神社に墓場がないのは、当然なのです。また、このクニの仏教寺院の場合、人間の死後の名前にヒエラルキーをつけ、墓石の大きさを競わせ、仏壇という高価なものを各家庭に置いて、死後の世界の管理者のように振舞っていますが、人間の死霊は、職業的仏教者には、ほとんど接触することはありません。正しい仏教的修行は、霊的コンタクトを否定するところからスタートするのですから…。そのルーツからいって、仏教は死者にやさしい宗教ではないのです。そのため、仏教者は墓場の横に住んでも、ほとんど影響を受けることがありません。それは馴れの問題ではなく、知覚センサーの問題です。
「最終知識」が完成したことで、人間霊との接触を制御してきた私の行動に変化が生まれます。これから、私は、私の祈りによって送ってほしいと希望する方のために、「まつりぬし」の役割をはたそうと考えています。また、私の主導によって、散骨をしてほしいと希望する方のために、祈りとともに散骨する役割もはたそうと考えています。
人間の死にかかわることは、ケガレです。
インドでは、低いカーストの仕事とされてきました。このクニもその影響を受けている面があります。しかし、これからの時代は、浄化力を持つ人間が、積極的に担うべき役割なのだと、私は伝えられています。人間でいる間に、私がすることで、後に続く人間に、自覚が生まれるはずだからです。
私は、これから、散骨者になるという宣言をしました。この宣言は同時に、アーストラストの最初のテーマである、「墓のかわりに、森を…」という、この地をケガさずに去ろうとする人間の、死に方の案内にもなるはずです。
百年生きたとしても、人間は、すぐに死に到ると感じるように、たましいの時計がプログラムされている…。
私は、人間がすぐに死ぬものであることを忘れた結果、この種の一員であることが恥しくなるような、欲望の暴走がはじまったのだと考えています。
仏教、とくに原始仏教といわれるような、2500年前のブッダの教えに近い仏教では、生きている人間のきたなさをくり返し教え、死んでさらにきたないものへと変質していく、生物としての本質から、形而上的に脱出しようとする思考訓練を、修行として伝承してきたと、いってよいでしょう。
それは、欲望からの解放という、新しい欲望の発見につながりました。その新しい欲望を、私は悟りと呼びます。ブッダの到達した知の領域が、この宇宙との一体化、宇宙の知を共有する意識の層への人間レベルからの、突破であったということを、私は伝えられ、「最終知識」に記しましたが、それは、通常の人間が「悟り」という言葉から思い浮かべるものとは、本質的に異質なものなのです。
「悟り」にも「小悟」から「大悟」に到る各段階があるという、今日、知られている普通の仏教的解説は、人知の限界を示しているということです。
仏教は、人知です。ブッダは自らの能力で知った人間でした。だから、人知なのです。ただ、その人知は、当時の神々の知を超えるレベルのものだった…。
そこで、ブッダは、人間の生と死のプログラム。極論するなら、いくたびの生をくり返しつつ成長していく「たましい」のプログラムの存在を見たのです。この学びを一回の生で終了させることを欲するものへの教えが、仏教の本質です。そこからは転生しつつ、人間を導くブッダの生まれ変わりなどという怪しい人間が宗教的指導者となるというようなストーリーは、本来生まれようがないのです。ところが、インドでは、ブッダは、ヴィシュヌ神の生まれ変わりのひとつの姿とされるような、解説があります。しかし、歴史をよく考えてください。ヒンドゥー教は、仏教に勝利して、いまのポジションにいるのです。それは、神々が、人間に勝利したことを示しています。
何故か。
神々は、くるべきときがくるまで死なず…。
一方で人間は、いかに優れた能力を持つものでも、百年もまたず死に到る…。
人間が勝利したとしても、それは一時的なものに過ぎません。この神々と人間の関係は、日本でも、よく知られていました。人間が盛んなときには、神々もこれをさけて、人間が定まったときには、神々がこれを撃つというルールです。
それは「断じて行なえば、鬼神もこれをさく」というような言葉で伝えられてきました。それほど、人間には、ちからがあるわけです。その人間のちからが、ほぼ究極にまで達したのが、現代という時代です。地球の未来を、人間という生物の種が決めてしまうという、途方もない傲慢さに、多くの人間は疑念すら抱いていない時代。人間は、すぐに死ぬものであることを忘れてしまったかのように見えます。
しかし、その見たくないものを見ないという、行動原理は、もうすぐ強制終了させられようとしています。
日本の社会で進んでいる団塊の大量リタイア、少子高齢化の社会の未来というのは、まさに、死に向き合って生きる時代の到来を示しているのです。そこでは、死に方の責任が問われます。
この2007年からのアーストラストのテーマは、その死に方です。その人間が人生をどう生きたかが、死に方であきらかになることを、もう、人類は正しく知るべきなのです。このプログラムには、価値観の転換も必要ですし、環境問題も、医療も、そして、それらを統合するビジネスレベルでの経済性も政治レベルでの取り組みも含まれます。
その考え方を、これから、お伝えしていきます。
もちろん、このプロジェクトは、このサイトや精神学協会のスタートと同様に、私というひとりの人間の意識から出た、構想ではありません。
この方向という、明確な指示を伝えてきたのは、私をつかさどる存在であり、それに協力する神格があり、私は解説者、あるいは、いま生きている人間に対する提案者としてここにいます。
これがアーストラストの序章です。次から、プログラムの解説がはじめられるでしょう。もう、みなさん想定されているとは思いますがご期待ください。
もし、私が目覚める前の状況に置かれ、「最終知識」という書に出会ったとしたら、私は間違いなく、精神学というひとつのムーブメントに馳せ参じるだろうという確信がありました。私が精神学協会というものをスタートさせたのも、そうした私のような精神状況にある人間が、この日本には、かなりの数、存在するという認識があったためでした。
そういう人物が、いつどういう形で私の前にあらわれるのか、実は興味しんしんだったのです。そして、この2007年6月にそうした人物が、私のもとを訪れ、精神学協会の正会員になられました。
この現象が、何を意味するのか。
私にとっては、この人物の持ってきたお父様の死出の送りをひとりでされた、とむらいの情報が、アーストラストのはじめのはじまりを指し示していたものでした。
私は、人間の脳が、高いレベルの光の情報に反応するのと同じように、低いレベルの人間の死によっても消えることのないスピリチュアルな思いにも反応することをよく知っています。
私の周囲にいて、多少なりとスピリチュアルな能力を開花させた人間なら、私が人間の霊、死者の霊というものと、コンタクトでき、その思いのエネルギーの処理をできることを知っています。
私は、死者のたましいとコンタクトできるがゆえに、いま、日本で普通におこなわれている葬式というものに否定的です。どんなに盛大な葬式でも、死者のたましいは、導くものもなく、行き場を失い、そこにたたずむばかりだからです。
仏教の葬式は、はじめから死者のために祈るということを想定してはいません。一神教では、形式的には、死者が天に迎えられることを神に祈りますが、その葬儀の場に、死者の霊のために会衆とともに、言葉としてとなえることを祈りだと信じているようです。
アーストラストは、その名の通り、地球のためのトラスト(信託)を目標に、お墓のかわりに、森を買いましょうという、運動体であり、信託されたものとして、活動をする団体に、これから成長していくことが求められます。
アーストラストの行動原理は、概念的には、人間活動の結果として、生み出してしまった、環境的な負の遺産を、少しでも減少させるものとして、これからの時代のひとつの潮流となるものですし、表面的な反対意見は少ないはずです。
しかし、それは誰がやっても、いいものなのでしょうか。
私は、精神学協会の発想でスタートするアーストラストには、ある絶対的な条件があると考えてきました。
それは、死者のたましいとコミュニケートでき、その死者のたましいのための祈りを主導できる、祭主(マツリヌシ)とでもいうべき、光の人間の存在です。
すくなくとも、私や「最終知識」における同行者などのレベルの能力を持てば、それらのことぐらいは可能になります。それが、快適なものであるとはいいませんが、能力があれば役割は担わなければならないでしょう。儀式として、生き残っている人間のための葬式など、必要はないのですが、死者のたましいの深い闇のエネルギーを、地上に放置する必要もないのです。
私にとって、宗教によらない、そのための人間的な方法は、これから創造していかなければならない課題なのです。それは、アーストラストの出発の条件でもあります。
冒頭に記した、私のもとを訪れた人物は、その父上を、自分なりの方法でとむらい、送ったということです。いまの日本では、ある種の信念がなければ、これらの行為はとてもできるものではありません。しかし、宗教によらない死者との別れには、強い希望があります。
手さぐりではあっても、それは、もうはじまっています。
この2007年。私は、精神学協会の一年間のプログラムの終了者に対して、創造的な脳をつくる、スピリチュアル・メソッドと、今回の話にあるような祭主(マツリヌシ)につながるような、スピリチュアルな能力開発のふたつの方向で、次のステージへの案内をしようと考えていました。その延長上で、いま、この祭主(マツリヌシ)のような能力も含めて、これらの脳の機能を使うのは、スピリチュアル・ビジネス・メソッドという概念が必要なのだと考えはじめています。
このスピリチュアル・ビジネス・メソッドというのは、スピリチュアル経済研究という講座のテーマにつながります。
これからはじまる、アーストラストのバックグラウンドには、そういう、考え方が必要なのです。
私にあるははじまりの予感は、そういう全体のリンクです。
ひとつひとつのピースがつながり、全体として、次の時代のスピリチュアルなムーブメントになっていく…。
目覚めるひと、参加するひと、そのひとりひとりにとって意味あるトラストであるために、生者たちの脳の内部から、変化がはじまろうとしています。
「お墓のかわりに、森を買う」ことを、アーストラストという組織体が呼びかけるとして…。ひとりの人間がお墓に支払う金額と、いまなされている散骨というものに必要とされる経費の中間に、いまの日本で誰もが納得できるようなトラストの基本料のようなものが、設定できると考えられます。
散骨の経費を調べてみると、散骨の手段として、ヘリコプターを使うか、船をチャーターするのかで、大幅に差がでることがわかります。
これは人間の側からのビジネスモデルです。
一方で、私がアーストラストをやがてはじめるであろうと知ったときから、頭のなかにある数字があります。それは、「この地をけがさずに去ったもの」のひとりとして、アーストラストに自分の希望する場に散骨してほしいと考える参加者の託すべき金額。
1人 500,000円
その内訳は、
| 募集活動費10% | 50,000円 |
| 事務局運営費10% | 50,000円 |
| 散骨費用(実費)30% | 150,000円 |
| 以上経費が50% | |
| トラスト資金50% | 250,000円 |
| 計500,000円 | |
この金額は、精神学協会の会費と同じように、私が設定したものではありません。あらかじめあった数字、あるいは、私が指示された数字です。ただ、散骨や自然葬という考え方で、自分の死に責任を取るための金額としては、充分以上の納得の行くものだと私は考えています。
なぜ、トラスト資金が必要かというと、お墓のかわりに、森を残したとしても、その森を維持するコストを、たとえば、都市の不動産のような信託財産の収益でまかなわなければならないからです。
田や畑や里山という、日本の農村地帯は、いま、その地域を支えている老人たちの退場で、劇的な変化を迎えるはずですが、短期的な資本の論理で、それらの環境が維持されるはずはないのです。それを支えるのは、日本の場合、新しい農本主義とでもいうような意識を持つ人間のグループになっていくでしょう。
地縁や血縁で、地域が維持できなくなった先に、そうした時代がくるはずです。
いまでも、少子高齢化の進行は、守り手のいない墓、相続人のいない田畑や森、その他の不動産を増大させているはずです。売れる不動産なら処分もできますが、バブル崩壊後の日本では、収益性もない、税金だけがかかる個人所有の不動産が残されています。
いまの人間は、死んで、いろいろなものを残します。生きているうちに、その残すものの整理をして、できるだけ後に続く人間に負荷をかけない…。この地球に負荷をかけない、そういう人生の終わり方を用意することができることに、気がつくべきときがきているといっていいのです。人間は、死すべき存在なのです。
いまは少なくても、やがて、このアーストラストの考え方が、地球上で生きる人間にとって、普通のものになる日がきます。その意味では、きちんとスタートし、運営を誤まらなければ、このビジネスモデルの成功は、約束されているともいえます。
ただ、スタートするには、人材が不足しています。それが、現実です。
この日本では、墓地というものは、宗教法人か地方自治体でなければ、つくれないもののようです。自然葬や散骨というものは、その墓地を必要としないので、その面では問題がないのですが、お金の出入りが発生するために、法人格のようなものが必要になることが考えられます。
そして、その前に、アーストラストという考え方の名称そのものが、使えるかどうかという問題もあります。
ネットで調べる限り、アーストラストという自然保護活動をしている団体がアメリカにはあるようです。1976年に設立されているようなので、団体としては「アーストラスト」を名乗るわけにはいかないでしょう。とすると、お墓のかわりに森を残すという主旨の活動をする団体の、名称と組織のあり方を考えていかなければなりません。
こういう問題になると、すぐにNPOとか宗教法人とかいう法的な位置づけから入ろうとする特性が、日本ではあるようですが、私は、神という概念も、宗教的行為も人間の法の下にあるものだとは考えません。
無税の特権を得るために宗教法人を売買したりするこのクニの現状に深い憂慮を感じているひとは、自分の墓所や葬られ方についても無関心であっては、ならないのだといわなければならないのでしょう。
私は、この地球を本来のあるべき姿で、次の世代に伝えようとする人間の行動を、「地球を返せ」と命じている存在へのピースフルな回答だと考えます。
そこに強制も、強要もありません。ただ、自分の名前が刻まれた墓石よりも、その費用を使って、森を残した方がよいと考える参加者の自由意志が、ひとつの運動体を支えることになるのです。これは、実現可能な理想主義です。
すると、スタートで失敗する訳にはいきません。夢みたいな理想を語っている間はいいのですが、現実に近づくと、普通は人間の闇の側面が利害とともにあらわれてきます。このビジネスモデルにかかわることが許されるのは、マネーの暗黒面に影響をされないレベルの浄化力を持った人間なのだということになります。
クリーンという意味で優れた人間は、たくさん居ます。しかし、影響されないための浄化をできる人間は、闇のエネルギーの実体を知り、その処理を正しく学んだものだけだと私は教えられています。
この浄化力を持つためのカリキュラムが、精神学協会の正会員プログラムであり、そのカリキュラムのなかにある、霊的波動のマスターが、人間の死者の霊とのコンタクトも可能にするのです。この人材が正しく育つことが、このビジネスモデルの核となるのです。
いま、この能力を身につけるために、最短でどれくらいの期間で可能なのかを、検証する試みを、はじめるべきかどうかの問いを、私は私をつかさどる存在に投げかけています。
すくなくとも、霊的コンタクトの能力と、それに対応する浄化力がなければ、私が想定している、祈りの主催者としての祭主(マツリヌシ)は機能しません。
ただ、どうやら祭主(マツリヌシ)になりたいという人材は、私が想定していたより多いらしいという実感があります。それは、大きなプラス材料でしょう。
アーストラストの名前をどうするか。組織をどうするか。いまは、参加したいひとの、ひとりひとりの頭のなかでシミュレーションをしておいてください。
この8月の下旬、正会員の方がふたり訪れ、そのテーマがアーストラストの活動の一部になるかどうかという質問と共に、自分たちの行動プランを私に提示してくれました。
その行動プランの背景には、ひとりの会員の方がされた「命の書」についての劇的な体験がありました。
その会員の方のお母様は、近年、老人性の「うつ」が進行し、かなり深刻な状態になっておられたようです。その会員の方は、なぜか、以前に亡くなられていたお父様の「命の書」の登録をするということを考えつかれたのです。
お父様の「命の書」登録をされた、その日に、お母様の「うつ」の症状は劇的に改善され、「早く元気になって、しっかり生きたい…」という言葉が聞けたということです。
死者をきちんと光の世界に送り出す用意をすることが、なぜ、「うつ」の改善につながるのか。
精神界という場のエネルギーを知覚しなければ、その謎はとけません。
しかし、人間は無意識に、そのエネルギーを知覚化しているから、「うつ」や「ひきこもり」という反応をしているのです。
わかりやすく説明すると、花粉症というものがあります。
花粉症は、発症するまで、その人間の身体が花粉という小さな物質の存在を認識せずに生活しているといってもいいでしょう。ところが、一度、発症すると、少量の花粉にさらされても、身体は、花粉症の症状をくり返し起こすようになります。
精神界の闇のエネルギーというものも、同じように、発症するまでは、普通の人間には感知出来ないものです。しかし、たとえば、いちど「うつ」の状態になると、その次に「うつ」を起こすのには、より少ない闇のエネルギーで発症するようになります。それこそ、ひと言の言葉が一気に「うつ」の底に人間を落とすことの鍵になったりします。
これを組織的に、やっているのが、宗教のマインドコントロールの実体といってもいいでしょう。
宗教の持つそうしたスピリチュアルなエネルギーの特性は、神が、羊である人間を支配するピラミッド型の命令系統にふさわしい上意下達型のものであり、精神学協会がくり返しお伝えしている強制と強迫のない光のルールとは、異質のものです。しかし、宗教にはこのエネルギーを使う知恵と伝統がまだ残っています。その結果、これからも闇のエネルギーは供給され続けます。それを処理するのがアーストラストの目標のひとつです。
いまある「うつ」と「ひきこもり」は、人間の精神活動が、自己と他者の間で、スピリチュアルなエネルギーのやりとりをしていることを、無意識下で知覚化し、その闇のエネルギーを処理して精神の健全性を維持できなくなった場合に生じる暗い思いの場のエネルギーが身体に作用する現象です。
闇のエネルギーの浄化ができれば、事態は改善に向かうのは当然です。この法則性がわかれば、過去あった宗教的方法が、「うつ」や「ひきこもり」の改善には結びつかないことが理解できるはずなのです。いま、アメリカや日本などで抗うつ剤の投与が必要な人間が、増大している背景には、競争社会のストレスだけではなく、きちんと処理されない人間由来の闇のエネルギーの増大も関係していることに、そろそろ人間は気付くべきなのですが…。
すくなくとも、アーストラストがテーマにする、地上を汚さずに去る人間になるためには、自分がつくり出した闇のエネルギーの処理を、何らかの方法でしなければなりません。
お墓のかわりに森を残そうというアーストラストの考え方の前提にあるのは、「うつ」や「ひきこもり」をつくり出すような闇のエネルギーを減少させようという認識なのです。その意味では、「うつ」や「ひきこもり」で苦しんでいる人間を、改善の方向へ案内することも活動の一部になっていくはずです。その活動を、私を訪れた会員がはじめるとするなら、どういう、プロセスで何からはじめるのが適当なのか。あるいは、私を含めた役割分担はどうするのか。
やっと、私が待ち望んでいたリアルな行動プランの段階に、入ってきた実感が生まれたディスカッションでした。
アーストラストという運動をスタートするときは、生きている時間と、死とその後をつなぐ時間、人間のたましいに、光を投げかけるような活動をしていくべきなのです。「マツリヌシ」だけではない、多様な素質を持つ人間が参加を求められているというイメージが、アーストラストにはあります。
そのために、いま、私は、私が正会員に教えていることを、正会員の方たちが、普通の人間を対象にどう伝えるのが、いちばんシンプルで効率的なのかを真剣に考えはじめています。
日本の龍脈がたたれたという情報をお伝えしてから、私は、もういちど富士山に行き、そこに、光の世界への柱があることを確認してきました。
それは、2007年9月18日のことです。
では、日本の龍脈が実はどうなっているのかの確認をしに、この2007年9月24日に大台ケ原に行ってきました。
濃霧と雨という最悪のコンディションのなか、ひとつ目たたらとされる、大台ケ原の神格が、まことに微弱なエネルギーには、なっていましたが、なんとか持ちこたえていることを知りました。その存在は、富士山とつながることで、なんとか命脈を保っている状態だといってよいのでしょう。
ことし、その富士山の頂上付近の永久凍土の一部が、消滅しているという情報もあり、富士山の森林限界がさらに上に登りはじめているという報告もあるようです。
この2007年が、日本の温暖化についても、ターニングポイントとして記憶される年になりそうだという予測は、全国的な真夏日の異常な増加という、人間の身体が感じた変化以上の変化を、動植物にも与えていることが確認されるなかで、不幸にも的中しているようです。
日本の龍脈というものが、現実にはどうなっているのかは、いろいろな見解があるでしょうが、私が知る限り、それは地質学の知識とリンクしています。
伊勢は、そのなかで、富士山と四国のアワ、剣山、石鎚山系、九州の九重山系から阿蘇という、日本の中枢というべき龍脈の中心にありました。
地下の龍脈はたたれても、天空の光のラインは残されているということなのかも知れません。紀伊半島の大台ケ原からも、天気さえよければ人間の目で富士山は見えるというのですから…。
この地球上の龍脈を、人間の身体のなかで投影しているのが、仙骨の先に宿るとされるクンダリーニのエネルギーの流れというのが、これまでの知識でした。それは、インドのクンダリーニ・ヨガの知識にも、中国や日本の風水や仙術、あるいは神道の知識のなかにもあったものです。ところが、いま、その、地球的な龍脈の流れに変化が生じているとすると、それを投影する人間の身体のエネルギーの流れにも変化は生じているはずなのです。
私は、その変化がこの21世紀に入ってからの異常なほどの風水ブームや、スポーツ化したパワーヨガのブームにつながっているのだと、いま、理解しつつあるところにいます。
それは、消える前のろうそくの炎のように、いまは照度を高めていますが、やがて、闇のエネルギーを強化しただけだったことを身体自身が知るようになるでしょう。わかりやすくいうと、身体は身体で、ほんとうの風吹くおやしろとして目覚めたいというベクトルを持っています。そのベクトルが、意識化されたときに、目の前にあるのは、まことに古びた東洋の英知ともいうべき、宗教的修行法の活用というのが、いまある人間の知識にとっての現実です。
ところが、それをマスターしても、気や念という人間の精神的エネルギーの強化がされるばかりで、過去の循環の輪にとらわれるだけなのです。
いまある身体のニーズは、人間が破壊してしまった地球環境の過去のルールにはあてはまらないのです。そう考えていくと、いまある地球のフィジカルなルールを、投影された人間のフィジカルな身体のルールを発見していくことが、「うつ」や「ひきこもり」の改善の次にくるテーマだということになります。
人間の身体がちゃんと機能するためには、地球的な自然環境も、地域社会の人間関係も、そして、地球的な経済活動のあり方も問われるというのが、精神学というものの到達点のひとつです。そこまでは、神の問題ではなく、人間の問題なのですよ…。
理性がある人間なら、ここまではわかるはずです。そして、龍脈の出口近くに競って自分達の墓をつくってきた人間の罪深さも、納得できるはずなのですが…。
精神学協会の正会員プログラムを受けたのちに、正会員として期待される能力をどの方向で開花させていくかについて、私は、次のふたつの方向があると、判断して、すでに、このゴッドブレインのサイト上でみなさまにお伝えしました。ひとつは、すでにはじまっている創造性を高めるスピリチュアルメソッドに代表されるもの。もうひとつの方向としては、これまで、宗教にゆだねられてきた、人間の霊やたましいというものを、知覚し、コンタクトし、光へと導くものとしての<マツリヌシ>としての能力を身に付けるもの。
この<マツリヌシ>を志願して、精神学協会に入会される方があり、私は早急にその養成方法をつくらねばならないと考えていました。
ところが、今回、この<マツリヌシ>の養成に関しては、私よりも天のハタラキが先行して発動しました。それは、ほとんど奇跡のようなことなので、やがて、その会員さん本人が、何らかの報告をされるはずです。ただ、天のハタラキ方を知っておくことが、これからの会員活動のためにも重要だといえるので、概略だけをお伝えしておきます。
ある日、その会員さんに、友人の会員さんから、もっときちんとハタラキなさいというメッセージが届きました。その会員さんは、そのメッセージの出所が、より上位のところからと直感して、ハローワークに出かけました。
そして、その日、ハローワークで唯一条件に合う仕事としてその会員さんを待っていたのが、ターミナルケアの病院の現場で看護師さんたちとハタラクという仕事でした。その会員さんは、これが天の配剤であると直感し、その仕事をはじめました。ほとんど意識のない老人を相手にする仕事の現場で、その会員さんが相手をすると、いつもは暴れる患者さんが、静かに介護を受けたりという体験をされ、意識はないように見えても、人間は、人間として扱われることを希望していることを理解されたようです。いまは、たましいの接触と、皮膚の接触は、人間の文化のなかで、ほとんど同一線上にあることを、身体が感覚として学んでいるといってよいでしょう。その会員さんは、自分には、まったく霊的能力がないと信じていました。「それでも<マツリヌシ>になれますか」と私は問われました。「正しい希望なら天が導くでしょう」と私は回答しました。
その通りのことが、今回はきわめて急速に進行したのです。
その会員さんは、もうすぐ、死にゆく意識のない老人から、お別れのあいさつを受けるという霊的接触を経験するはずです。さらに、私がわかりやすく「シニガミ」と呼んでいるものの存在も感知できるようになるはずです。今日は、10月6日からはじまっている、この変化を伝える<ヒツクノカミ>受信者が、受けた<マツリヌシ>関連の通信を、このアーストラスト2007に掲出しておきます。私のハタラキと天のハタラキ。それらがひとりひとりの人間の役割を担う情報へと収束していく精神学協会のハタラキ方の面白さ。
人知をはるかに超えるハタラキが、いま、進行中です。
<ひつく文書>
(2007.10.6 pm5:49受)
しびとのゆくえは
どこへ ゆく
あなたを たよって
やって くる
あなたの もとへと
たすけを もとめ
次から次へと
やってくる
なぜなら
あなたが それを
感知して
処理する ちからを
求めた からだ
じっせんが
どうやら さきに
来て しもた
と いう ことじゃ
(2007.10.6 pm6:21受)
てんの はいざい
かえることも
かわることも ない
みずからの きぼうした
ぶしょ はいち
<通信>
※下記の通信は、本文中の<マツリヌシ>養成に関する天のハタラキを示すものです
(2007.10.6 pm6:30受)
まつりぬし講座の実践方法
1.しびとのくちは、語らずとも、その肉体的役割を終えたたましいは、霊を残すもの、残さないものとに分かれる
2.残すもの、とは、納得のできないまま、その生を終えることになったもの
3.伝えることのできなかった思いのかたまりは、聞き入れ理解をしてくれる生きた人間が存在しない限り、エネルギー体として存在する
4.伝えたいことが何なのか、そのメッセージのようなものを受け取って伝達する必要があるのなら、その声に耳をかたむけること
5.特定の誰かに、ということが、はっきりしない場合、メモなどに書き出しておくこと、伝えるべき相手が来た時に、意識をせずとも、それを伝えることになる
6.思いのこした思いが強いほど、そのエネルギーは強く、長期にわたり苦しい思いをしてきたものほど、生への執着は強い
7.皆の見ている前で、うろたえていてはいけない、冷静に、周りの状況を見ながら、きちんと対応すること、まかされた者のとるべき対応とは、静かに見送ることだけである
伝えるべきことは、伝えなければならないタイミングが、あり、今が、それ、という知らせは教えてくれることになる
8.生を終えた時点で、肉体からは切り離されて、通常の人間は感知をすることが出来ないが、その人間が思いを伝えたかった相手や、もしくは、その存在を理解出来る人間のそばに存在することになる
9.伝えるべき伝言を、代理で届ける役目が済んだら、霊が残っている必要は、ない
そのものの、たましいを送り出すのが、自らの役割であり、まつりを司るもの自身が感情に流されていてはならない、霊とは思いや感情を増幅し、こり固まったものであることを忘れていてはいけない、自らが、その思いのかたまりのエネルギーに左右されているようでは、正しいはたらきは成し得ることが、できない
10.願はくは——-(←名前(本名))のたましいが、光の道へと、導かれますように、と、はるか上方に届くよう正しく祈ること
11.時間がかかる場合がある、そのものが、よほどの思いを残している場合、あるいは、生への執着が強い場合、いづれにしても、完了のタイミングは、済むべきことが済んだら、認識ができるようになる
まだ、なのか、あるいは、終了、なのかは、上の方へと問へば、よい
この精神学協会で、「マツリヌシ」の能力を開花させたいと希望している会員の方が、私の知る限りでは、いま、ふたりいらっしゃいます。正しい道すじで希望するもの、求めるもの、志願するものには、そのために必要な能力は、与えられるはず、というのが精神学の考え方なので、ある意味、特別待遇で、私は、その能力を開発するための対応を、してきました。
このふたりの方に接して、私は、身体のスピリチュアルな情報の流れを、阻害する要因が、宗教的修業だけでなく、かつて流行した精神界的な能力開発プログラムによっても、ケガなどによる身体の損傷によっても生じることを、理解することができました。
人間の身体は、ほんとうに「風吹くおやしろ」なのであり、ある意味、風吹くこと、つまり、呼吸することと、神性を宿し高めることは、セットになっているのです。
それが、誤った情報と、その適用によっても阻害されるし、ケガなどによる外的な損傷でも阻害されるという現実に直面すると、これまで人間が、なぜ、間違い続けてきたのかがよく見えてきます。
これは、マツリヌシ志願の方の例ではありませんが、日本のある密教系の教祖に、能力開発のために額に触れられた少年は、大人になったいまも、額にあるはずの第三の目の光感知能力を失ったままです。
それもまた、たましいのプログラムといえるのでしょうが、人間の身体が持つ高性能な情報処理能力を、正しく動作させるための、共通言語のようなものが、人間という存在には、用意されているのです。その共通言語は、人間の意識にも、身体にも、作用します。たとえば、ひとりの人間が、愛するという言葉を、特定の相手に向けて発するときに、高揚した気持ちになるなど、意識にも変化が生じ、同時に、身体にも動悸の高まりなど、はっきりした変化が生じます。
人間は、こうした情報系を、身体の内側に持っているだけではなく、そこで発生したエネルギーを身体の外側にも放出しています。こうして、ひとりひとりの人間という小宇宙は、その他の人間と共に生活している同一の時空という物質的宇宙との相互作用によって、変化し続ける運命のなかにいます。
生命体として、生きている限り、人間はそういう存在なのです。そして、人間が発するスピリチュアルなエネルギーには、もうひとつ重要な要素として、その人間のたましいの刻印が、つけられているという特色があります。それがなければ、エネルギーの場で誰それのたましい、誰それの霊というものを特定することができません。
このエネルギーの場においても、人間ひとりひとりのたましいのヒストリーを特定できることがなければ、審判などという概念は生まれようがないのです。そして、それが死後の人間の霊というものには、すべての情報が記録されているという、精神界からの情報に根拠を与えているのです。
このルールを正しく知れば、求める人間は誰でも霊能と一般に呼ばれる、能力を持つようになれることが理解できるでしょう。それを、阻害しているものは、その人間の内側にあるのです。
ブリージングという過呼吸によって神秘体験をするという危険な体験の結果、阻害要因を持たれた方のことは、すでにスピリチュアル経済研究Vol.18で報告しています。もうひとりの方は、かつて、山仕事で、脊髄を損傷され、奇跡的に回復されました。その方は、2007年12月中旬に霊的コンタクト能力が与えられたという情報が、私に伝えられました。ところが、当人にその自覚が生まれませんでした。あらかじめ、もし、その反応がなければ、ケガが原因で背骨という龍脈が断たれているという情報を与えられていたため、私は12月29日に、その情報系の回復を、ある会員グループの協力でしたのです。
それまでの、その会員さんの身体は封印されてきたようでした。本人が自覚していないうちに、そのたましいの中心に存在する神格が封印され、人生という時間を神性の回復のための戦いに費やすことを放棄した…。
それが、私が知ったデータでした。
これから、その方の内部で、マツリヌシになるべく生まれたたましいのプログラムの発動があるはずです。この2008年になって、私は、その会員さんの身体が、この日本というクニの国土を象徴するものだったことに気がつきました。
正しく考え、行動するためには、情報系というものを総動員しなければなりません。その情報系を、国土というレベルで考えると、龍脈という問題になります。それが断たれた状態では、スピリチュアルなデータもその全体性を失ったものであり続けます。私のいままでの経験をもとにいうと、この発見をきっかけに、このクニの霊的な場に変化が生じるはずです。
アース・トラストは、この日本の国土が、ほんとうの日の本になっていくことを目標にすることになるでしょう。そのために、ことしから、日本を加え、アース・トラスト・ジャパンというタイトルに変更することにしました。
人間が持つマツリヌシの能力が、お墓のかわりに森を残す運動につながり、人間の生き方と死に方という新しい文化の出発点となるはずです。
たとえば、今日の世界の富と貧困、支配する者と支配される者の関係。それらは、世界を植民地として切り分けた、ある時代の文明の負の遺産として、現在まで引き継がれてきたものです。
イギリスの産業革命のときに、大量の貧者を生み出した土地の囲い込みと、同じメカニズムが、現代の中国で、ひと握りの富裕層を出現させています。
政治権力は、土地の所有権のルールをどのようにでも変化させることができ、価値を高めることも、無価値にすることもできます。
このクニは、原則的には、明治に到るまで、公地公民制だったのであり、大名といえど、その領地はもとより、住居であったお城も預りものという位置づけでした。
明治の廃藩置県が予想されたほどの大混乱を生じなかったのは、支配階級である武士の価値観に、マネーより、土地より、重要なものがあるという教育が徹底されていた結果にほかなりません。この精神文化の遺産が消滅してしまったために、いまのこのクニの漂流があるのです。
すくなくとも、江戸までのこのクニの文化は、マネーと政治的権力を分離しておくという英知を持っていました。
世俗の富と、権力は、残念ながら、民主主義という制度のもとでは、それを支える市民社会の成熟と、市民ひとりひとりの自覚なしには、分離しておくことが困難です。
いま、このクニの社会は、所得の格差だけではなく、共同体意識の崩壊、教育の荒廃というように、末期的な状況です。それと反映するかのように、山村部での耕作放棄地の拡大など、国土の荒廃も進んでいます。
この現状を回復するためには意識の転換が必要なのですが、その転換のためには、土地の所有制そのものを疑うという姿勢が求められているのでしょう。
イスラムの文化圏においては、神に捧げられた公共的なもの、たとえば、バザールのような施設が長い歴史のなかで蓄積されてきました。その結果、かつてのイランのパーレピ王朝のような強圧的な政治にも、対抗できるような、勢力を宗教界は保持できたのです。
いまの世界は、そうした歴史的文化の重層性を持つ価値を無視して、マネーによる統合を進めることの困難さに直面しているのです。文化は、生命と同じように多様性を持たなければ、行きづまります。いまの世界は、植民地時代の大英帝国からアメリカという英語の文化によって、コントロールされています。この英語の文化は、コンピュータの文明とイコールなものとなっていますが、それが、永遠に続くことはないのです。
ことしの2月は、いままでとは違うペースで、いろいろなことが生じ、たましいのスイッチが入ることを実感する人間も増えているようです。
その先に、このクニの意識の変化が、地球の環境の変化に役立つような現実の技術や経済に結びつく結果になるようなハタラキをする場が待っています。
精神学協会が、現実の場でハタラク人間のためのアソシエーションであり、そういうハタラキをする人間を育てる場であることが、これから実証されていくでしょう。
いま、私の周囲で、その準備が着々と進んでいます。
私が、限られた時間のなかで、会員の方々のさまざまな活動をバックアップすることを考えると、支部というものもやがて必要になると感じていました。
この2008年は、すでにその段階にまで進んできているといってよいのでしょう。ただし、正会員であれ、維持会員であれ、ひとりひとりの会員の方は、ひとりひとりが直接光とつながっているのであり、支部が取り次ぎをするという宗教的発想とは無縁のものであることはいうまでもありません。
私が当初、考えていた各支部というものは…
一年間の正会員プログラムを終了された会員の方が、最低でも二名以上で、各支部の活動をしたいと申し出た場合に、いつくかの条件を満たしていれば、その申し出を受け、何らかの支援をする、というものでした。
それは、正会員の方のなかで、スピリチュアルなエネルギーのデータ解析をする能力と、闇のエネルギーを処理する能力を持った方が、最低でも二名いないと、人間のこころの闇にかかわるハタラキをするのは危険だからです。
神業をするものであれ、セラピストやカウンセラーという名のものであれ、相談を受けたり、指導をするものは、支配したり、抑圧したりするものになる可能性をいつもかかえています。
現実に、宗教的カルトやスピリチュアル・セミナーなどでの言葉の暴力や、セクシュアルハラスメントの被害は、金銭的な被害よりも深刻なダメージを残します。
精神学協会の一年間の正会員プログラムをマスターし、その知識を邪まな欲望のために使うなら、ある種のカリスマにはすぐにでもなれるのです。
私は、原則的に自分に属さない精神界のエネルギーとの接触や処理は証言者がいるところでするという行動で、この危険を回避してきたのです。
いま、このレベルにある会員の方が二名揃う地域はまだありません。ひとりでは、人間のたましいに触れることは危険すぎるのです。
したがって、いまつくるとしても、それは、私が期待している、闇の処理をする能力を持った支部ではありません。ただ、やがて、その能力を持つ会員が増加、そういう機能を持った支部が立ち上がるでしょう。
ところが、この支部というものを、アース・トラスト・ジャパンの地域活動につながるものと考えると、もう少し、ハードルが低くなります。
それぞれの地域で、精神学協会の支部を立ち上げようとする正会員の方が、いま何をしたいかという提案をしていただく余地が生まれます。
会員の方は、それぞれ自分の考えを持ち、自分流のハタラキをされるはずですが、地域で協力して何かをする必要があると感じる方は、会員ひとりひとりの共感と合意を形成していく責任を担わなければなりません。
いま、それらのことを考えておくことは、これからの精神学協会のためにも大切なことなのだと感じます。ただ、新しく参加する正会員の能力は、加速度的に高まるはずです。やがて、私が期待している支部活動ができる人材が育ち、本来の役割をはたすでしょう。2012年までには、各支部はそういう支部になっているはずです。
このクニの豊かな海を守ろうとするなら、山を守らなければならないという関係が多くの人間に知られるようになってきました。ところが、山間部では、高齢化が進み、田畑の耕作放棄地の増大と、手入れのされない山林の増加によって、人間の住めなくなる地域が急速に拡大するといわれています。
私の個人的なスケジュールでは、お墓のかわりに森を残そうという運動の主体となるNPO法人のようなものとして、アース・トラスト・ジャパンをある程度以上の賛同者を集めて立ちあげるのは、2012年以降だと考えていました。
前にも書きましたが、私の頭のなかにある、自分の墓をつくらず、山か海に散骨を希望する方が、負担するのは、50万円です。そのうちの50%、つまり25万円分が山林や田畑を購入し、維持するためのトラスト資金に当てられるというものなのですが…。
単純に、精神界にある数字である「いちまんとばしら」という10000人の参加だと、その資金は、約25億円になります。墓地の価格だけではなく、このクニの都市部の土地価格や、有力な宗教団体が集めている献金額からいうと、大したことはできない数字のように思えます。
ところが、山となると…。
先日、私のもとに35万坪の山林という案件のニュースが届きました。ある雪深い地方の山林ですが、一応、国道に面しているということでした。正確なことはわかりませんが、価格はヘクタールあたり何十万円という数字だったと記憶しています。
一万人どころか、千人でも、かなり大きな公園のようなスペースを次の世代のために残すことが出来そうです。
いま、全国で地方自治体が支えてきた林業組合などが、その借入金の返済をめぐって、政治的な決着を迫られています。
現代のマネーゲームにおいて、それらの山林は、利を生まないものであることを知りつつ、地域のための公共事業として、継続されてきたというのが、現実のところでしょう。
経済が成長し、税収の増加が期待できる間は、このような選択も可能でしたが、もう、国にも地方にも、そんな余裕はありません。
これから、どうなるのでしょう。
山林というものは、放棄すれば荒れます。国内材の需要が回復するなかで、材木を切り出した後、植林し数十年の管理を誰が担うことになるのでしょうか。
いまのグローバル経済のなかでは、世界の景気に国も地方も、そして山林地主も、影響を受けます。ペーパーマネーの方が、実体として、年々成長する山の木々よりも、パワーがあるというこの経済の不合理さをよく考えてみましょう。このバカバカしさは、生きている人間の欲望だけを、経済が反映しているからなのだと、いい加減で気がつくべきなのです。死者は、マネーゲームに参加することはできません。けれど、生きている間にできることもあるのです。それは、自分が生み出した財貨を、自分の死後にマネーゲームに使うのではなく、マネーゲームの時代を終らせるために使うという選択です。
そのひとつが、私がお伝えしている、アース・トラスト・ジャパンの方向性なのですが、この面でも、状況は急速に進行しているのかも知れません。
これも誤解されることを承知したうえで、要約してしまうと、地球上の土地というものに、私有制という概念をあてはめ、すべてをマネーで買えるようにした時代が、私たちの生活している「いま」という時空なのです。
この時代のルールや価値観を、聖書の黙示録は、はっきりと予告していたのではありませんか。
地球という生命系は、この人間の無限の欲望に耐えることはできません。それに気づいた人間から、生きざま、死にざまを変えるしかないとしたら、日本という場で、いちばん最初に、その変化が起きなければならない必然があることにも気づくべきでしょう。
日本の山々は、歴史上、つねに神仏に捧げられていた場であったことを思い出してみてください。
いま、革命家チェ・ゲバラの娘さんが、このクニを訪れています。
アルゼンチン生まれのゲバラは、キューバ革命成功の後、1959年に使節団の団長として来日、たっての希望で訪れた広島で衝撃を受けます。
スピリチュアルな意味で、なぜ、いまゲバラなのか…。また一方では、マヤの神官も来日し、マヤ暦への関心をあおっています。私の情報系では、これらの一連の動きは、最後の一厘のしくみにつながるものだということです。
ゲバラは、最終的に南米のボリビアで死にます。
そのボリビアに、スピリチュアルな関心を向けたこのクニのグループがあり、そこに参加した日本人のひとりが自分の操縦する飛行機が墜落し、大破するなか、奇跡的に生き残ります。
その人物は、帰国後それまでの仕事の領域を超えて、地球の環境やエネルギーの問題を解決する技術の開発者、発明家の道を歩みはじめました。
私があらかじめ与えられている情報として、日本で最後の一厘のしくみが本格的に発動すれば、このクニは再び黄金のクニ、ジパングになるというものがあります。
この情報が、正しいことを、精神学協会の会員で、その人物に会ったことのある少数の人間は、確認しているはずです。いまはまだ、研究中のその技術は、可能性として、化石燃料と核燃料という、現行文明を支えるエネルギー資源の問題から、人類が解放される日をもたらすかもしれません。
なぜ、それがゲバラとボリビアにつながるのか。
その人物は、ボリビアでいく度となく空飛ぶ円盤を見ています。それを見て考えたことが、現代の物理化学の限界をブレークスルーする発想につながったといってよいのでしょう。
その人物が公開することを許可しているDVDがあります。
そこには、小さなエンジンを乗せた模型飛行機の映像が収録されています。何の解説もない映像をよく見れば、その飛行機は、翼の揚力によって空中に浮いているのではないことがわかってきます。
その模型型飛行機は、地球の重力を打ち消す何らかの力によって空中に浮き飛んでいることになります。
もうおわかりでしょう。空飛ぶ円盤の飛行は、どう考えても重力波とそれを打ち消す反重力波というものをコントロールする技術が必要なのですが、そのDVDの映像は、その技術の可能性を示しているのです。
ゲバラはある意味、このクニでいうところのミコトモチでした。
そして、そのたましいを、そのこころざしとともに保護し、保存した神格があることを私は知っています。
日本ではじまる最後の一厘というプログラムは、決して日本だけにとどまるものではないのです。
いま私がお伝えできる情報はここまでです。
精神学協会が目ざしているアーストラストという動き、その考え方の原点には、人間界と精神界、そして物質界のすべてにおいて、これから生じる変化が織り込まれていることを忘れないでいてください。
地を汚さずに去る人間というものになるために、飽和点に達したひとりひとりの人間の欲望を、どう本来あるべき調和点にもどすかを、考え、創造していく必要があるのです。そして、そのための発見や発明をするのも、身体を持った人間なのです。
用意はされていますが、それを見つけ生かすためにハタラクものが必要だということです。
このクニは、毎年3万人以上の自殺者を出し続けながら、それを社会問題化もしない不思議な気分の中を漂流し続けています。公式データでも、毎日毎日90人以上が、自ら死を選び、死体を残し、誰かにその自らの肉体の最期を託しているわけです。
キリスト教、とくにカトリックでは、自殺は罪とされ、教会はその葬儀はもとより、墓地に葬ることまで拒否してきました。死に対する考え方は、ある意味で、その文化を規定します。日本の武士道では、死に方に対する美学を、宗教的な価値にまで高めて、自死を認めようとします。しかし、この場合の死は、責任の取り方であり、自らの死によって積極的に家や一族などの名誉を守るという社会的な機能もはたしていたのです。
いま、このクニにおける自殺のほとんどは、そうした名誉ある死ではなく、精神的に追い込まれたり、経済的な苦境という人生の敗北感から生じたものなのです。
このクニが敗者復活戦という考え方の社会的な仕組みを持たないまま、グローバリズムの名のもとによる、マネーの論理だけに支えられた競争社会に突入したときから、こうした結果ははっきり見えていたはずです。
日本語を話す日本人は、主語のあいまいなその言語特性そのままに、「私は、私は」という自己主張が苦手です。その結果、自身と他者の境界をあいまいにしたまま、何らかの問題に直面すると、自分の責任範囲と他の責任領域の区別がつかないまま、すべてが自分の責任や罪であるかのように思い込みやすいという現象を生じることになります。
それは、うつ病の入口です。
そうした内的な問題の解決に、精神科や心療内科で処方される、抗うつ剤のような薬は、もっぱら自己主張の強烈なアメリカ社会で治療薬として実績をあげてきた薬のようです。
脳の動きを、脳内物質というバロメーターでみて、それを制御するということをする前に、思いの形態、ここではあえて思考形態とはいいませんが、日本語を使う脳と、英語を使う脳の間の差を検証していくことが必要なのではないのでしょうか。
アメリカ人はすぐにセラピストのもとを訪れますが、日本人はカウンセリングのできるセラピストというよりも、占い師やヒーラーと呼ばれる手っ取り早い救済に出口を見つけようとします。この差が、毎日90人の自殺者という数字にあらわれているのでしょう。その自殺者が、この世の側に思いを残し、とどまっているというのも、また現実です。その暗い思いのエネルギーは、伝播し続け、さらに犠牲者を増加させていきます。
いま、このクニの社会は、そういうサイクルにしっかりと入っているのです。
自分の死を考える人間なら、こうした他の人間の死も考えなければなりません。多くの宗教者は、人間を天国と地獄にわけることで、自分たちの生きる糧を得てきました。何を根拠に、人間は天国と地獄にわけられるのでしょうか。
宗教者が、それをきちんと説明できるのでしょうか。
どのような説明をしたとしても、その根拠は、過去からの伝承でしかないのです。その過去あった精神世界というものすべてが消滅したこれからの時代での説明にはなりません。
アース・トラスト・ジャパンは、自殺という文化を持ったこのクニで活動するために、すべてのたましいのマイナスのエネルギーも処理できる場が、山や森にあるという日本人なら誰でもが感じている浄化の根本を出発点にしなければなりません。
私は、欲望にまみれた都市の文化が、その経済の論理だけで、山や森や田園の所有者となるときに、かつてエネルギースポットとされた聖なる場所が、ただのケガレ地になりはてる姿を何度も見せられているのです。
日本全国、もう、はじめないと間にあいません。それは、毎日の生活のなかから、仕事のなかから、はじまるべき、新しいムーブメントなのですが…。
光文書のVol.105、イザナギ、イザナミ、キクリヒメというテーマで私は、このクニに用意された最後の一厘のシステムは、白山のスイッチを入れるまでという意味のことを書きました。
かつて存在した日本の神界において、唯一世界につながっていたのは白山神界でした。
白山にスイッチを入れれば、その情報は、世界に伝達されるということなのです。
1991年に白山ヒメ神社の三本杉が倒れるという象徴的な出来事によってはじまったこのプログラム。日本での用意が終わり、世界的な、あるいは地球的な規模に移行するある種の儀式が、この9月12日に私が白山山頂に立つことだった、とここではお伝えしておきます。
シンボリックな意味で、1991年の日本と、この2008年の世界は、同じように、過去の経済システムの崩壊に直面しています。それらのことは、あちこちに置かれた正しい情報系の予言や予告には、はっきりと伝えられてきたはずです。それが、この2008年10月から、世界規模ではじまります。komyoshiによる9月30日の<ヒツクノカミ>の通信はそれを示しています。
その先に何があるのか、少なくとも、私が白山に登るまでは、その先の情報は一切ありませんでした。ところが、9月28日の日曜日、千葉市のある正会員の方のお宅を訪ねて、私は、ある納得をしたのでした。その方のお宅は、住宅街のなかにあり、270坪ほどの敷地のなかに、三棟の建物があります。一棟が自宅で、一棟はオフィス用に賃貸され、もう一棟は、ほとんど使われていないかつての社員寮です。ところが、このお宅では、これらの建物よりも、はるかに存在感のある三本の樹木が、私を迎えてくれたのでした。
二本は市街地では考えられない桜の巨木で、もう一本は欅の木でした。
どれも樹齢は百年を超えているでしょう。それらの木が、生き生きとしているだけではなく、このクニでは普通、苦労しないと育たない薔薇の木が、伸び伸びと、生育しているのでした。
また、そのお宅には、監視カメラがあり、そのカメラにスカイフィッシュと呼ばれる正体不明のものが映っているというので、その映像が私のもとに届けられたことがあります。
スカイフィッシュと呼ばれるものはカメラの映像にはとらえられても、ほとんどの場合、人間の視覚では認識できないもののようで、その意味では、心霊写真のようなスピリチュアル系エネルギーが作用している可能性もあるようです。
そのほかに、そのお宅では、植物の妖精の映像も数多く記録されてきたようです。お話のなかに、そのお宅の庭先に置かれた鉢植えの植物の妖精が、「すいませ~ん。お水ください…」とご主人にコンタクトしてきたことなどがあったのですが、その場で、私はここならそんなこともあるかもと感じていたのです。
アニメ映画のもののけ姫の監督は、屋久島に滞在し、「こだま」のインスピレーションを得たとされていますが、そのお宅には、そうした原初の森に近しいエネルギーが満ちていました。そこは、この世に残された、精霊や妖精とコンタクトできた人間たちの記憶の窓といってよいのかもしれません。それはまた、宗教、とくに一神教が人間の支配をはじめる前の地球は、そうした生命あるもののコミュニケーションが成立していたことを示しています。このクニの自然に育てられ、自然と接してきた日本人の心性が、このクニの自然をさらに豊かなものにしてきたという相互作用がそこにはあります。
「うぶすな(産土)」というものの価値を、人間はグローバル経済の崩壊のあとに再発見するというベクトルを、私はそのときに感知したのでした。
日本が世界の雛形というスピリチュアルな情報の背景には、そんな要素もあるのです。
「優しくなければ、生きている資格がない…」ハードボイルドの小説家、レイモンド・チャンドラーの書いたこの言葉を、すべての強者たちが自覚する日がくる気持ちにさせてくれる時空が、その三本の大木が守るお宅にはあったのです。私が、テーマのひとつにしているアース・トラスト・ジャパンというものの目標と、その運動を担う人間の姿がおぼろげながら見えてきました。
この星の生命は、いま主人のつもりでいる人間の強欲とは、別のルールのもとで生まれ、進化するベクトルのなかに置かれていることに気づくときを迎えているのです。
この2009年、人間世界の変動に対応するかのように、スピリチュアルなデータ系では、天も地も不思議な変化を示しています。
私が知っているのは、天の一二三というものが動きはじめ、どうやらそれが現実のこの宇宙では、太陽の活動の変化とリンクしているらしいことと…。
地のイワトが開いて、いままで封印され、人間界には影響をおよぼすことのなかった原初の神格のエネルギーが、地面から人間に伝わっているらしいという、天と地の連動なのですが…。
具体的なエネルギーでいうと、このクニでは、あまり一般的ではなかった霊界の下にある地獄の層へ人間のたましいを送り込んでいた、西欧的な悪魔というもののエネルギーが、かなり強く人間に影響を与えています。ハリウッド映画の天使と悪魔というタイトルが、日本人の潜在意識にある何かを刺激して、そうしたエネルギーを活性化させているのかも知れませんが、このクニの宗教的伝統では対処する知識のないもの、つまり、免疫のないものです。
それが、地の底から出てきて、人間にかかっています。悪魔のささやきや、悪魔の誘惑によって、破滅への道を歩むものたちが決定的に増加していくことになるのでしょう。
アース・トラストの基本的な考え方は、お墓のかわりに森を残そうというものです。それは、このクニの人間にとっては比較的容易に受け入れられる主張のはずです。
自然を破壊して造成された墓地を購入し、高価な墓石に名前を刻んで、そこに自分の骨を収めることが、人生の目標ではないことぐらい誰でも知っていることだからです。
ところが、死後の世界を職業的なテーマとする宗教者にとって、葬式から納骨までの儀式は、収益の柱になっています。
それらは、死者のためのものというより、生き残った家族の心の安定のための儀式ですから、それで満足が得られるなら、ビジネスとして成立します。
いまは、死にいくものが、死について深く考えることもなく、死後のことを、生者にすべて委ねているという人間の歴史上、はじめての事態に遭遇している時代といえるのです。
だからこそ、このクニで人間のたましいを地獄の底へ落とすためにハタラク悪魔という意識エネルギーの跳梁跋扈がはじまっているのかも知れません。地のイワトが開くということは、地中深くに隠されてきた神秘のデータが人間の意識に上ると同時に、最後の審判でわけられたものたちが、落ちていく概念的にいうと永遠の暗黒の世界への扉が開いたということなのでしょう。
この6月に入って、私の頭のなかには、くり返し「暗黒の宇宙」という言葉が伝えられています。
この地球を、暗黒の宇宙のなかに置くことを、誰が希望するのでしょうか。しかし、このままでは、その方向のようです。
ほとんどのものたちが、暗黒の宇宙に去り、約束されたものたちが、光の宇宙へと歩みを進めるという聖書の黙示録の世界が、いよいよ、この日本でもはじまっているとしたら、自分の死、人間の死を考えるためのアース・トラストの役割も重要になってくるはずです。
