フィリピン・マバラカット慰霊の旅
(前編)
戦後80年の節目の年として
2025年 9月13日にフィリピンのパンパンガ州マバラカット市に行ってきました
目的は、旧海軍航空隊マバラカット東航空基地跡にある慰霊碑です。
ここに、積先生の許可を頂き、名代として英霊の方々にご挨拶し、まつり主の一員としてこのフィリピンの地に積水、積塩にて礼を尽くし、祈ってまいりました。
マバラカット東航空基地は、敷島隊をはじめとして数百名の若き特攻隊員が帰らぬ命を奉げた歴史があります。又、日本人には、あまり知られていませんが、日本の神風特攻隊(敷島隊)として初めて飛び立ち成果を上げた地であります。そして、ここは、縁あるフィリピン人の方々によって創建された慰霊碑です。
私にとってのフィリピン
私は、フィリピンの友人知人も多いのですが、生前、母が「遠い親戚の叔父さんが、戦時中、赤十字の病院船に乗っていて撃沈されフィリピンの海に沈んでいる」とよく話をしていました。
また、父の弟が、少年兵として特攻隊志願でしたが、出撃せず終戦を迎えました。
まつり主として歓迎されたエピソード
○この時期、フィリピンは、雨期の真っ最中で、天候が危ぶまれました。
当日は曇り空でしたが、青空が見え隠れするまでに回復、同行した知人のフィリピン人がびっくりするほどでした。
○マバラカット市は、マニラ空港から北方片道90㎞もあり、慰霊碑のある所は、 私も含め、案内のフィリピンの友人3人も全員初めての走行。
アラヤット山が見え、「もうそろそろかな・・・」と思った矢先、「もう着きましたよ」と女性の声が聴こえました。
びっくりして、進行車の右窓をのぞくと、コンクリート造りの神社風の鳥居が見えたのです。
慌てて、車をUターンしてもらい現地に無事に到着。
案内役の運転手も、苦笑いしながら、なぜわかったのか首をかしげていました。
○日本で、検索をかけると最近は門が閉じられているとの情報もあり、地域の身分証明のある知人に案内を頼んでいたのですが、門は、開かれていて、現地は私達だけでした。
○最後に3名の協力していただいた3人の方々と記念撮影をしたところ、バックの空が、日本の旭日旗の上部の放射状に見えたことが不思議でした。
5名の戦士
フィリピンのレイテ沖海戦が始まり、最初の特攻隊の戦士は5名でした、
昭和19年10月21日に、最初、出撃されたのですが悪天候の為に標的が発見できず帰還しました。この後、2回、3回出撃され帰還の繰り返しでした。
そして、10月25日早朝、敵機同部隊発見レイテ沖にて戦死。
敷島隊長 1 関 行雄 大尉 23歳
2 谷 暢夫 少尉 20歳
3 中野 磐雄 少尉 19歳
4 永峰 肇 飛行兵曹長 19歳
5 大黒 繁男 飛行兵曹長 19歳
命の書の登録
帰国後、悪天候の為2回、3回と出撃と帰還を繰り返し、何度も死の極限の一点を想い、覚悟を持って散って行かれた5名の方に、敬意をもって、命の書に登録させていただきました。
命の書に登録するにあたり、不思議だったのは、導くようにフルネーム、生年月日
YouTubeで検索すると1回でヒットしたのですが、その後、何度か検索したのですが
見つかりませんでした。
また、急に愛媛県にある関 行雄大尉のお墓がアップされ、心に響くものがあり、パソコンの前でおもわず手をあわせました。そして、辞世の句も、メッセージのように見つかりました。
まつり主の一人として また戦後日本に生まれた一人として感じたこと
この出撃された慰霊碑の前で深く頭を下げ祈っていると、積先生が、すでに光へと整えて下さったのか・・・すでにいやな波動はなく、歴史がただただ平然と過ぎて行くのを感じとりました。
最後に、私が心に感じた二人の辞世の句を載させていただきます。
下記の二人の句には、若くしても、永遠の生命(たましい)の尊さを心の奥で知ってい
たからこそ、
我々の礎となって出撃してくださったのだと感じ、心より感謝いたしました。
□ 南溟(なんめい)に たとへこの身が はつるとも いくとせ後の はるをおもえば
永峰 肇 様
□ 身はたとひ 機艦もろとも 沈むとも 七たび生まれ 撃ちてしやまん
谷 暢夫 様
●これまでの活動報告はHP:まつりぬしの活動報告 https://matsurinushi.com/category/report/ にてご覧いただけます。


