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まつりぬしの原点(アーストラスト)

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Archives of activity reports of Matsurinushi

活動する<まつりぬし>の記録

各地で活動している<まつりぬし>の
これまでの活動報告をまとめています

  • 20.時間がありますか

    人は、年齢が若ければ若いほど、自分の死について考える機会は少ないはずです。それは、はるかのちにやってくることで、今日や明日に考えたり悩んだりする必要のないことだと感じるからです。しかし、年齢を重ね、大病を患ったり、友人知人や家族の死に触れる機会が多くなると、自分の命も有限であり、死はある日突然に訪れる可能性さえあるものだということが実感として湧いてきます。私の知人がアメリカの日本食レストランで働いています。このレストランの店長はまだ30代ですが、聞くところによると彼は日本で大手商社に勤め、比較的良い収入を得ていたそうです。しかし、1995年の阪神大震災で同僚を亡くし、自分も危うく難をのがれ、まだ若かった彼はショックを受けました。人は死ぬのだ。自分にもいつ死が訪れるかわからない。なら、自分がしたいことにすぐ取りかからなければ、時間が足りなくなるかもしれない。そうなれば死に際に後悔することになる。そう痛感した彼は、安定した会社勤めを辞め、かねてから頭の片隅にあったレストランをもちたいという夢にむかって動き出したのです。まったくの未経験にも関わらず、いや、未経験だからこそ彼の覚悟は並大抵のものではなかったのでしょう。レストラン経営の勉強をするために訪れたアメリカで日本食レストランを始めてしまったのです。自分が生きている期間が限られているということを強く自覚すれば、そのあいだに何を成すべきなのかということに意識が向かうのが自然です。しかもどれくらい期間が残されているか教えてもらえない。本当なら人間はもっと焦ってもいいくらいですよね。しかし、漫然と日々を過ごしてしまう。あまりこういうことは考えたくないのですが、ある日、あなたが胸のあたりに痛みを感じたとします。なんだろうといぶかしんでいましたが、数日たっても治らないので病院へでかけます。そこであなたは、聞いたこともない病名を言い渡され余命1年あるかどうかということがわかります。ショックと混乱の中、あなたが問われるのは、「残りの人生をいかに生きますか」ということです。あなたは、その1年をどう生きますか?あと1年の命ならもっと早く始めておけばよかった、これに挑戦したかった、と頭をよぎったことは何ですか。今まで、生活の安定や、世間体みたいなものを優先して着手してこなかったことですか。それとも、定年後にゆっくりしてから始めようかと思っていたことですか。私にはそれが何か想像もつきません。しかし、あなたはそれをすぐにでもはじめるべきではないですか。だって、実際には余命1年でないとしても、時間がないことにかわりはないのですから。

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  • 19.自分史を書く人々

    自分史を書く人々が増えています。自分史というと、退職したシニアがコツコツと自分の生きた足跡を記録する地味なイメージがありますが、私は、次の2つの理由でとても意義のあることだと思います。ひとつは、それまでの人生を総括し、その後の人生をつむぎだそうという積極的な取り組みの自分史もありえるということです。過去の人生を振り返ると、良い意味でも悪い意味でも、自分という人間の物語を、高みから俯瞰で見ることができます。意外な才能を持つ自分を再発見するかもしれないし、実は何もしてこなかったと反省するかもしれません。いずれにしても、その後の人生に大きな示唆を与えてくれるでしょう。自分史を書いたからといって、人生が終わるわけではありません。自分史を書くことで、何かに気付き、まったく違った人生を歩みだすかもしれません。もうひとつは、自分がたしかに生きたという証拠として何か残したいという衝動が表れているということです。もしかしたら、その衝動の一形態がお墓なのかもしれませんが、それが自分史なら、創造的産物の文章として残せるわけです。たとえあなたが仕事に真面目に取り組んできた人であったとしても、その仕事がかたちのあるものとして残せるものとは限りません。何かつくりだしたい。誰もが持っているその創造性の衝動が、高齢になってから高まってきても不思議ではないのです。つまり、人生の分岐点として自分史を書こうと、人生の記念碑として自分史を書こうと、「人生を見つめなおす」という意味において、自分史を書くことは、自分はどのように生きるべきかを考えることにつながるのです。その目的が、人のためか、社会のためか、地球のためか、あるいは自分のためかは別にしても、自分にはまだ何かやれることがあるんじゃないか、本当はしたいことがあるんじゃないかと、内面を模索する心理が、この自分史ブームを支えているような気がします。そこで、私は自分史を書いている人々にさらなる提案したいのです。あなたの自分史に、あなたの理想の死に方を書いてみませんか、と。もし誰かがあなたの死後に、あなたの自分史に加筆して仕上げをしてくれるとするならば、あなたはどのような最後で自分史が締めくくられるのが理想ですか。あなたの美学、信仰、信念、名誉、世間体、潔さ、いったい何があなたの死に方を規定するものでしょう。死後、どのように語られる死に方を求めますか。

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  • 18.家族に宣言する

    さあ、ここまでいろんな角度から「お墓はもういらない」ということをテーマに語ってきました。もし仮に、あなたがこの考えに共感したとします。しかし共感しても、それを決断し実行するには、大きな壁が存在します。それは、お墓はいらないと家族に宣言できるかどうかということです。両親や兄弟姉妹、子供たちに決断を伝えることができますか。お墓はいらないので、私の骨は、ふるさとの海や山に散骨してほしい。そういえますか。もしかして家族は反対するかもしれません。これまでの日本の風習に反するからです。当たり前と思われていることを否定して、あなたの意思を伝えることは簡単ではありません。しかも、お葬式も散骨も、実際に行動してくれるのは、あなたではなく残された家族なのです。家族がこれまでの風習に反することを行うためには、覚悟が必要です。親戚に「そんなことはやめなさい」と言われたときに、家族は何をよりどころにしたらよいのでしょう。それは、「それが父の意思であったから」、「それが母の願いであったから」という残された家族の確信です。「自然葬も悪くないねー」と話したことがあったからといって、家族はそれを必ずしも実行すべきことかどうかわかりません。むしろふだんの何気ない会話が、いざというとき遺族を迷わせることもあるのです。もしあなたが、本当に決断したのなら、そのことを真剣に家族に宣言する必要があるでしょう。第三者の反対も考えて、遺書を残しておくのも確実な意思表示になります。将来考えが変わるかもしれないからと遺書を書くことを避けてはいけません。考えが変わったのなら、その時に、それ以前の遺書を破棄して新しい意思表示をすればよいだけです。死は、いつ、どういうかたちで訪れるかわかならいことを誰もが知っていながら、人は、まだ自分に時間はあると信じています。死ぬときに考えて家族に話すよ、では冗談にもなりません。人間関係にもよりますが、ふつう家族内で死について語るのはある種のタブーで、家族の死に関する話題を避けてしまいがちです。それは特に子供から親に、確認しづらい話題です。あるいは、自分や家族が死ぬときのことを考えることさえ、避けてしまっているかもしれません。しかし、めんどうくさがってそれを考えなければ、そのしわ寄せは遺族にいきます。よくわからない故人の意志を思いながら、ここに墓をつくったけどよかったのか、自然葬にしたけどこれでよかったのか、これで満足してくれるのかと、永遠に一抹の不安をかかえていくことになるのです。あなたが本当に家族を愛するなら、家族に負担をかけたくないなら、あなたは自分の死に方に関する意思を、理想的には書面で、家族に伝えておくべきではないでしょうか。

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  • 17.死者に花をたむけたい

    墓地のことをあまり否定すると、死者を手厚く葬り、花をたむけたいという自然な感情に反すると思われるかもしれません。たしかに人類は古くから死者を放置せず土葬するという習慣を持っていました。今から約4万年前に出現したとされるクロマニヨン人はすでに死者を土葬し、石を積み上げたり、花をたむけたりした痕跡があるようです。1978年のTVアニメで「未来少年コナン」という作品があります。アレグサンダー・ケイ原作の「残された人びと」をもとにしたSF冒険物語です。この中で、少年コナンは離れ小島で「おじい」と呼ぶ初老の男性とたった2人で暮らしています。そのおじいが亡くなったとき、コナンは悲しみのなかで、おじいを土葬し、石を積み上げ、その前に小さな野花を植えます。何もない孤島ではそれがもっとも自然な行為だろうと思えます。おそらく現代人であれ、大自然の暮らしの中に放り出されたらコナンとまったく同じことをするのではないでしょうか。それはおそらく洋の東西を問わず太古から実際に行われてきたことでしょう。しかし、これらの自然発生的葬送法と、現代のお墓は違います。なぜなら現代のお墓は、遺体や遺骨の置き場として土地を占有して、永遠性を求めるものだからです。永遠にそのお墓を維持したい、そこにあり続けたいという施設だからです。逆に、太古から行われてきた、直接、遺体を土に埋める方法は、ある意味でもっとも根源的で一般的な自然葬であるとも言えるのです。現代の散骨のように火葬していないので、遺灰をまくというかたちをとっていないだけで、死者を大自然に帰そうという思想は共通しているのです。つまり死者はまた地球の一部となることができるのです。石を積み上げ花をたむけるのは死者を埋葬するときだけで、それを未来永劫、維持管理しようとしてするものではありません。あなたは自分の墓を誰かにずっと維持管理してほしいと思っていますか。人間は、大きな家がほしいと思う所有欲の延長で、死後も大きな土地と大きな墓を「自分のもの」として占有したがるのかもしれません。しかし、それがどれほど意義のあることでしょうか。あえて仏教的な表現をすれば、死に際してもなお、「自分だけの立派な墓を持ちたい」という煩悩から逃れられないと皮肉を言われても仕方ないのではないでしょうか。ヒマラヤ登山の案内人であるシェルパは、山中のある場所に石を積み上げ、遺体はないのですが遭難死した登山者たちのために冥福を祈ります。山のどこかで眠る死者のためにです。海でなくなった人にささげられる花束はたいてい海に投げ込まれます。落ち着いて考えてみると、人は遺体・遺骨置き場を占有せずとも、死者の冥福を祈り、花をたむけることはできるのです。

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  • 16.お盆って何

    お盆ってなんでしょうか。辞書で調べると「盂蘭盆会」のこととあります。サンスクリット語のullambana(ウランバナ)を漢字に音写したものだそうです。旧暦の7月15日(新暦の8月中旬)に、先祖の霊を供養し、倒懸(とうけん)の苦しみから救うという行事です。倒懸とは地獄での逆さづりです。こわいですね。ご先祖さまが一年中逆さづりにされているなら、ぜひ救いたいものです。この行事の由来には、お釈迦様が「その時期(安居)に供物をささげて供養すればよい」と言われたとか、「その時期に比丘たちに水や食べ物の施しをすれば、餓鬼道に落ちたものにもその一端が口に入る」と言われたという施餓鬼のエピソードがあります。その後、インドから中国を経て日本に伝わるあいだに、中元(7月15日)の供え物などの様々な風習が混ざり合い、現在のスタイルが出来上がってきたのです。現在の日本的なお盆では、どこでそううなったのか、先祖の霊が家に帰ってくる時期ですね。ふと、家に帰ってくるのにどうしてわざわざお墓参りに行くのだろうと不思議に思って調べると、お墓に出迎えるために行くのだということがわかりました。なるほど、お墓まで出迎えて、家で供物をあげ、僧侶にお経を読んでもらい、お見送りするという一連のストーリーがあるのですね。お恥ずかしいかぎりですが、そんな基本的なことも知りませんでした。では、お盆以外の時期に、仏壇に手を合わせるのは無駄なことだったのでしょうか。だってお盆以外は先祖の霊は家にいないんでしょ。なんだか複雑な心境です。夏の風物詩の盆踊りは、少しのあいだ地獄の苦しみから逃れられた亡者たちが喜び踊るさまを模したものと言われるそうです。楽しい盆踊りですが、意外とおそろしいさまを表していたのですね。こうして由来を理解すると、お盆も時代によって変化してきた単なる慣習なんだということがあらためてわかります。お墓のありかたと同じく、お盆にも、仏教的脅迫による「こうでなければならない」というものは、本来ないのです。お盆のしきたりと称して、寺院へ読経を依頼しないといけないとか、一日中灯明を絶やしてはいけないとか、供えものは一日三回変えなければならないとかいうことはないのです。50%以上の日本人が無宗教の葬式を望む時代ですから、これからのお盆を頭のなかで再定義してみるのもいいかもしれませんね。現代の私たちにとって、お盆とは帰省のための休日がもらえる時期であり、親戚一同が集うよい機会でもあります。ですから、お盆は「先祖のことに思いをめぐらす時期」であればよいのだと思います。奇しくも、8月15日は終戦記念日であり、死者のことを考えることが定められているのですから。

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  • 15.あなたも無縁仏

    5月28日号のサンデー毎日に「ハカの壁」というタイトルの記事があり、愛知県某所でうずたかく野積みされた大量の墓石の写真が掲載されていました。墓石には「○○家の墓」「「○○家先祖代々」などと文字が刻まれたままです。記事によると、たとえば東京都立のほとんどの墓地では、維持管理料の払われない墓は、10年を認定の目安として無縁墓として改葬し、墓石は「御魂抜き」「御性根抜き」などという儀式をしてから、廃棄物として処理され、一部は道路工事用のじゃりなどにされるとのことです。そして再利用されない中古墓石は山積みにされることもあるわけです。人間の墓場だけでも確保するのは大変なのに、墓石の墓場まであるなんてなんとも迷惑な話です。ある墓石・石材店情報のウェブサイトによりますと、墓石購入費用の全国平均は約174万円だそうです。それだけのお金を出しながらしばらくすると結局廃棄物となってしまうのはまことにもったいないようにも思えます。そのお金があれば遺族にとって助かることもあるでしょうに。ちなみにお墓の維持管理料は年1万円くらい、50年で50万円です。永代供養料として何十万円もまとめて最初に払う方法もあるようです。つまり無縁仏として改葬されないようにするためには、墓石代以上の出費を強いられるわけですね。もし無縁墓とされた場合、墓から取り出された遺骨は無縁仏として一箇所に集められることになります。せっかく購入した死後のマイホームから移されて、見知らぬ多くの死者の皆さんと同居です。ところで、死者の霊は墓石に憑くとも言われますが、お坊さんが、その「御魂抜き」とかという儀式をすると、本当に霊たちはその墓石を離れているのでしょうか。「わかりました。誰も墓参りに来てくれないし、集合住宅のほうが寂しさがまぎれていいですね。喜んで移らせていただきましょう。」と、素直に引越ししてくれるのでしょうか。霊とはそんなにものわかりのいい存在なのでしょうか。野積みされたたくさんの墓石には実はたくさんの霊たちが憑いたままということはないのでしょうか。死後に、私やあなたの霊も墓石と一緒に野積みされるということにはならないのでしょうか。ちょっと不安ですね。無縁仏になるなんてひとごとのように思えるかもしれませんが、少子高齢化が加速する日本では、今後このような現象が拡大するのではないでしょうか。あなたが墓を買ってそこに入ったとして、あなたの子供や兄弟がどこまで維持管理料などを払い、その墓を維持してくれるでしょうか。あなたの子供がしてくれても孫はどうでしょうか。あなたに子供がいなかったらどうなるのでしょうか。もしそれが出来なくなったとき、あなたは無縁仏となるわけです。ちょっと想像してみると、この現代社会の中で、あなたが無縁仏になる確率は、意外と高いのです。

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