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まつりぬしの原点(アーストラスト)

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Archives of activity reports of Matsurinushi

活動する<まつりぬし>の記録

各地で活動している<まつりぬし>の
これまでの活動報告をまとめています

  • 14.スウェーデンの森の墓地

    墓地を「負の遺産」呼ばわりしましたが、墓地として広大な土地を占有しながらも、その墓地が森と美しい調和を果たしている例もあります。TBSの番組「世界遺産」でも紹介された「森の墓地」、スコーグスシュルコゴーデン(Skogskyrkogarden)です。スウェーデンの首都ストックホルム郊外にあるこの森は北欧の建築界をリードしたエリック・グンナール・アスプルンドが25年以上のときをかけてつくりあげた無宗派の墓地で、1940年に完成しました。12万人のユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒などが共に眠っています。明るく美しい森の中に整然と並ぶ墓石、なだらかな丘陵に点在する木々の間にひっそりと佇むように建てられた「森の礼拝堂」や「森の火葬場」は日本の墓地を思い出したときに感じられるような陰鬱さがなく、その造形美は清らかにさえ見えるから不思議です。自然回帰の思想を墓地に活かすという発想を、20世紀初頭という早い時期に実践に移し、アスプルンドは、スウェーデンの人々にとって誰もが共感する「人は死んだら森へ帰る」という思いをひとつのかたちにしたのです。しかもこの森林墓地には、「追憶の丘」と呼ばれる丘もあります。火葬にふされた故人の遺灰をその丘に撒くためです。丘のふもとまでは歩道が通じていて、花畑に囲まれたその丘で遺族たちは花をたむけたりして故人をしのびますが、実際に遺灰を撒くのは墓地の人間に任され、遺族は丘のどのあたりに遺灰が撒かれたのか知ることはできません。つまり「追憶の丘」は自然葬を行う丘なのです。驚くべきことにこれまでに3万5千人ほどの亡くなられた方々が自然葬を行いこの丘のどこかで眠っているというのです。スウェーデン国内にはスコーグスシュルコゴーデンだけでなく、500箇所ほども自然葬の対象墓地があり、国民の半数が自然葬を希望しているといいます。キリスト教でも一部で火葬が行われるようになったのは19世紀になってからといいますが、21世紀初頭の現在にいたるまで、確実に宗教による束縛からの離脱は続いているのでしょう。土葬文化の多いヨーロッパにあって、この「追憶の丘」は思想的にもアーストラストと近い概念を持っていることがわかります。しかしスコーグスシュルコゴーデンで、ひとつだけ残念なことがあります。美しい森の墓地の芝生の中を伸びる歩道の脇には、白くてひときわ大きな石製の十字架が建っています。アスプルンドが最後まで反対したというその十字架は、この美しい墓地の中で唯一、特定の宗教を主張する異質なオブジェで、景観的にも思想的にもスコーグスシュルコゴーデンと相容れないもののはずなのです。

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  • 13.負の遺産墓地

    1982年のアメリカ映画「ポルターガイスト」では、郊外の新居に引越してきた家族がその家の悪霊に悩まされつづけます。その原因は、その家が実は以前墓地のあった土地に建てられたもので、墓石だけが移され、遺体はそのままにされていたというものでした。キリスト教墓地では土葬なので、棺桶に入れられた死者たちがたくさん家の下に取り残されていて、それを知りながら住宅を販売した悪徳不動産業者がいたのです。静かな眠りを妨げられた死者たちは、何も知らずその家に住む家族にさまざまな霊現象をもって襲いかかるという話です。火葬と土葬の違いはあれ、日本人にとっても墓地というものに対するネガティブなイメージはまったく同じと言っていいでしょう。日本の怪談でもいわくつきの建物が実はかつての処刑場や墓地だったところに建てられていたというのはお決まりの話です。墓地の真上でなくとも、窓から隣の墓地が見える不動産物件が相場より格段に安いのは現代社会の事実です。霊なんているわけないという堅物でさえ、お墓の横の家に住みたいとはなかなか思いません。なぜでしょうか。「だって気持ち悪いもん。」なぜ気持ち悪いのでしょうか。詳しい原理はわからなくても墓地というものが放つマイナスのイメージは誰もが認めるところであり、それはマイナスのエネルギーと言いかえてもいいでしょう。イメージだけだから何の影響もないはずだというのは時代遅れな発想ではないでしょうか。イメージは力を持ちます。現に墓地は周りの土地の市場価格も変えているではないですか。墓地の持つそのマイナスエネルギーのみなもとは死者の「思い」かもしれないし、墓地を見て死者を思い出すという、生きている人々の精神作用かもしれません。いずれにせよ死者のことを考えることで、霊界と呼ばれる薄気味悪い世界と意識がつながることが嫌なので人々はそれを避けるのではないですか。この、ある意味で社会に迷惑な墓地という宗教施設を今後も増やすことは「負の遺産」を増やすこととは言えないでしょうか。土地の少ない日本で、競い合うように「負の遺産」を増やさなければならないのでしょうか。またそのように気持ち悪がられるような施設増大にあなたも参加協力したいですか。原子力発電所やごみ焼却場など、どの町でも建設が嫌われる施設というものがあります。これらは「負の遺産」とは言えませんが、行政上どこかに必要だということで、地域住民の反対運動を抑えて結局どこかの町へ押し付けられてしまいます。しかし、墓地は行政上必要だからとどこかへ押し付けるようなことをしなくてもよいのです。「要らないよ」とみんなが言えればそれで済んでしまうのですから。

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  • 12.チベットの鳥葬

    チベットでは今でも鳥葬がひろく行われているそうです。鳥葬とは文字どおり、遺体を山の上に運び、ハゲタカなどの野鳥に食べさせるわけです。チベットではあくまで伝統的な葬儀のスタイルですが、今年1月、チベット自治区政府は、「チベット族が1000年にわたり維持してきた習俗を保護するため」という理由で、一般的に公開することを禁じました。鳥が食べやすくするために天葬師と呼ばれる人が刃物で遺体をぶつ切りにする様子はさすがに衝撃的らしく、その光景を心無くも写真撮影などする観光客が絶えないうえに、興味本位で報道されたりすることに精神的苦痛があるのでしょう。日本人にとっては野蛮に思えるかもしれないこの死のあり方も、同じ仏教の思想にもとづいたものなのです。映画「リトル・ブッダ」や「セブン・イヤーズ・イン・チベット」で日本人にもなじみのあるチベット仏教においては、死者の魂は死後49日までに身体を離れて、残された身体は単なる抜け殻となります。ご存知のように日本の仏教でも一般に四十九日というと忌中(きちゅう)と呼ばれ、死者がこの世とあの世の間をさまよっている期間とされています。チベットでは、さらに死後数日間は死者の魂を呼び戻さないように、死者の名前を呼んではいけないそうです。日本でもよく故人に執着する遺族に「いつまでも死者を引き止めてはいけないよ」などとさとす光景を見聞きしますが、こういうところも共通していますね。さて、こうして抜け殻となった身体は、単なる容器でありますので自然に帰すのが仏教的に一番良いし、鳥に対する布施にもなるというわけです。鳥を通じて死者を天に帰すという意味もあるそうで、鳥葬とは言わず天葬や空葬と言うこともあります。英語ではsky burial(空の埋葬)と言います。また樹木の少ないこの高地では火葬しにくいという資源的な理由もあるかもしれません。岩場の多い荒い山肌と凍土となった地面に土葬は不向きなのでしょうが、伝染病で亡くなった人などは鳥による感染を防ぐため土葬されます。とにかく同じ仏教思想でも結果として遺体の扱い方に大きな違いがあることがわかります。しかし実は日本でもかつては鳥葬が行われた地域もあるようですし、姥捨て山の話も考えてみれば一種の鳥獣葬と言えるかもしれませんね。さてここで、これまでと同じように死者の納得感について考えてみましょう。チベットの人たちは、遺体を鳥に食べられてかわいそうなのでしょうか。彼らは自分が鳥につつかれて食べられることが嫌なのでしょうか。彼らは、日本人が高額の四角い石を片寄せあうように積み上げて安心しているのをみてうらやましいと思うのでしょうか。どうでしょう。

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  • 11.古代エジプトの死者

    紀元前に繁栄を極めた古代エジプトでは、ファラオ(王)や貴族、高官、神官などの墓やミイラが多く作られ、それが現在まで残されていることで有名です。「エジプトはナイルの賜物」と言われ、ナイル川の沿岸地帯がエジプト文化の発祥地となったわけですが、その河川地域以外は灼熱の砂漠で非常に乾燥した土地ですので、死者の遺体はときに腐敗するまえに完全に乾燥してしまい自然にミイラができてしまうようなところです。このような風土のなかで発展した古代エジプトの死生観には、後のユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教につながっているのではと思えるような復活の思想がありました。死者は発達したミイラづくりの技術によって生前の姿をとどめるように処理され、死後の世界で復活し永遠の命を得て生前と同じように暮らせるように、あらゆる生活道具が副葬品として埋葬されました。副葬品のなかには、装飾品や家具だけでなく、天国(イアルの野やヘテプの野)で育てるための穀物の種もありました。しかし死者が天国で永遠の命を得ることは簡単ではありません。数々の試練を越えなければならないのです。有名なのはオシリス神の裁判です。多くの神々の前で、死者は生前に何の罪も犯していないことを長々と語らねばなりません。よどみなくこの42項目にも及ぶ否定告白を終えると死者の心臓をオシリス神の前にある天秤にかけます。ジャッカルの頭を持つアヌビス神が片方の皿に真理を表す「マアトの羽根」あるいは「マアト女神自身」をのせ、もう片方に死者の心臓をのせます。もし天秤が傾けば死者の告白はすべて虚偽であるとされ、横にひかえていたアメミトという怪物に心臓を喰われてしまいます。それは死者にとってもっとも恐ろしい第二の死です。永遠の命への希望は絶たれ地獄に落とされます。砂の中に完全に埋められる墓なのに、玄室の壁に死者の生前の行いをたたえる文章や呪文を多く残したのは、そのように死後の世界で必要だったからなのです。死者はこのオシリス神の法廷やそこに至る道中でも、何度も呪文を唱えたり、神々の質問に答えたり、名前を名乗ったりする必要がありましたので、葬儀のときには「開口の儀式」というものも行われていました。死後の世界できちんと言葉を話すことができるようにするためです。しかし、死者に恨みをいだく者は、遺体の口を破壊したり、墓から名前を削ったりして、死者が冥界で語れないようにしようとしたのです。さて、これらの死者の旅路を邪魔立てする企てはうまくいったのでしょうか。どう思われますか。

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  • 10.復活の日を待つための土葬

    ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教は、基本的に遺体をそのまま棺桶に入れて地中に埋める土葬です。これらの一神教に共通する土葬文化の背景には、「復活の日」を待つという宗教的意味があります。この世の終わりのとき、悪魔が神に敗れ去り、再び生を与えられた死者たちは、神による「最後の審判」を受け、神の国に行くか地獄に落ちることになります。その復活の日のために死後も生前の姿をそのまま残しておかなければならないのです。エジプトのカイロには、一見普通の住宅街に見えるけれども人影のない街があります。住居には屋根のないものが多く、部屋の中の土地には簡素な墓標があり、イスラム教徒が埋葬されています。この街型の広大な墓地地域は、実にカイロ市の面積の6%以上を占めるそうです。ここにも「復活の日」まで遺体をそのまま残そうとするイスラム教の葬儀思想が感じられます。キリスト教の墓地はハリウッド映画などでおなじみのように、地中に穴を掘り、そこへ遺体を入れた棺を埋め、石のプレートや十字架を地上に建てるものです。ユダヤ教の墓地も、地上の墓石がベンチのように少し厚みがあるという違いはありますが、キリスト教と似ています。スタイルの違いはあれ、みな「復活の日」のために土葬されているわけです。ところで、土葬文化の視点で火葬を見るととても恐ろしい行いに思えることでしょう。愛する故人の身体を焼いてしまうのですから。キリスト教の話で言いますと、中世のヨーロッパで魔女狩りが横行したとき、魔女とされた女性たち、あるいは異端とされた人々は火あぶりにされました。生きたまま火あぶりにされるということが、日本人の目には苦痛の恐怖として映るかもしれませんが、キリスト教徒の目には、それだけではありません。自分が火葬されることを認識しているという恐ろしさもあるのです。復活できないような殺され方をするのがわかるわけです。その絶望感たるや、いかほどのものだったでしょう。たとえ現代であっても、もし、この復活思想をベースにしたユダヤ教、キリスト教、イスラム教の信者がその意思に反して火葬などされたらどう思うでしょう。これもまた、日本的に言えば浮かばれない霊となるでしょう。仏教徒やヒンドゥー教徒の死者にとっては当たり前の火葬が、一神教徒の死者にとっては最大の責め苦となるわけです。逆もまた真なりで、火葬文化から土葬を考えると、愛する故人が朽ち果てて腐乱していくのが耐えられないと思うこともあるでしょう。結局のところ、生前の宗教思想によって死に方の良し悪しの感じ方も変わるということですね。

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  • 9.ガンジスに帰る

    ヒンドゥー教徒が多くを占めるインドでは、火葬場がガンジス川(ガンガー)のほとりにあり、亡くなった人々の遺灰を川に流します。火葬費用のない人はそのまま遺体を流します。ガンジス川はガンガー女神そのもので、聖なる川であり、現世の罪と穢れを洗い流す場所です。今でも多くの巡礼者がガンジス川沿いの聖地を訪れ沐浴を行っています。すぐそばで、洗剤で洗濯をする人もいれば、死体を流す人、歯を磨く人、沐浴する人がごったがえしているわけです。ヒンドゥー教徒にとって、この川のほとりで死を迎えることは理想的な最後の迎え方であり、死者を川へ流すことは最高の敬意を表すものなのです。紀元前5世紀ごろに仏教が興るはるか以前から連綿と続いてきたバラモン教の影響濃いヒンドゥー教では、三世転生思想がその底流にあり、現世で少しでも良い行いをすれば来世で良い人生がおくれると信じられています。この世にかたちあるものを残さず来世に旅立つのが理想とされ、魂の抜け殻である死体も自然に帰すのがもっとも良いとされるのです。そのため、火葬場やガンジス川に流された遺体を観光客が写真におさめようなどということをすればヒンドゥー教徒の怒りをかってしまうことになります。不敬であり、写真とはいえ現世にかたちあるものを残してしまうからです。来世に生まれ変わるはずですので、もちろん墓の必要はありません。もしヒンドゥー教徒が、死後はガンジスに帰りたいと遺言していたにも関わらず、どこか内陸部で火葬され地中に埋められたら、その魂は安寧を得られるでしょうか。きっと悔しさで思いを残し、われわれの言う幽霊のごとき存在になってしまうでしょう。かたちのあるものを残さずに死にたいというところが、アーストラストの概念と似ているからという理由だけで、このお話をしているわけではありません。ヒンドゥー教徒が信じた理想的な死のあり方を達成したあとに得られる死後の世界は、おそらく彼らのイメージしたものに近いものなのではないでしょうかと言いたいのです。それは日本人が死後に垣間見るかもしれない死後の世界とは基本的に違うものでしょう。もし日本人の葬儀方法に基づいて、彼らを、生前に「納得」していない墓に納め、仏教のお経をあげるという扱い方をすると、少なくともヒンドゥー教徒にとっては冒涜でしかないわけです。そのような宗教観の違いを知った上で、彼らの考える死後の世界と日本人が考える死後の世界を比べて、どっちの死後の世界が本当だ!などと議論することは誰が考えても馬鹿げた話だと考えるでしょう。なぜ、そう思うのでしょうか。

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