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まつりぬしの原点(アーストラスト)

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Archives of activity reports of Matsurinushi

活動する<まつりぬし>の記録

各地で活動している<まつりぬし>の
これまでの活動報告をまとめています

  • アーストラスト2007vol.4

    アーストラストのビジネスモデル<その1>

    「お墓のかわりに、森を買う」ことを、アーストラストという組織体が呼びかけるとして…。ひとりの人間がお墓に支払う金額と、いまなされている散骨というものに必要とされる経費の中間に、いまの日本で誰もが納得できるようなトラストの基本料のようなものが、設定できると考えられます。
    散骨の経費を調べてみると、散骨の手段として、ヘリコプターを使うか、船をチャーターするのかで、大幅に差がでることがわかります。
    これは人間の側からのビジネスモデルです。
    一方で、私がアーストラストをやがてはじめるであろうと知ったときから、頭のなかにある数字があります。それは、「この地をけがさずに去ったもの」のひとりとして、アーストラストに自分の希望する場に散骨してほしいと考える参加者の託すべき金額。
       1人 500,000円
    その内訳は、

    募集活動費10%50,000円
    事務局運営費10%50,000円
    散骨費用(実費)30%150,000円
    以上経費が50%
    トラスト資金50%250,000円
    計500,000円

    この金額は、精神学協会の会費と同じように、私が設定したものではありません。あらかじめあった数字、あるいは、私が指示された数字です。ただ、散骨や自然葬という考え方で、自分の死に責任を取るための金額としては、充分以上の納得の行くものだと私は考えています。
    なぜ、トラスト資金が必要かというと、お墓のかわりに、森を残したとしても、その森を維持するコストを、たとえば、都市の不動産のような信託財産の収益でまかなわなければならないからです。
    田や畑や里山という、日本の農村地帯は、いま、その地域を支えている老人たちの退場で、劇的な変化を迎えるはずですが、短期的な資本の論理で、それらの環境が維持されるはずはないのです。それを支えるのは、日本の場合、新しい農本主義とでもいうような意識を持つ人間のグループになっていくでしょう。
    地縁や血縁で、地域が維持できなくなった先に、そうした時代がくるはずです。
    いまでも、少子高齢化の進行は、守り手のいない墓、相続人のいない田畑や森、その他の不動産を増大させているはずです。売れる不動産なら処分もできますが、バブル崩壊後の日本では、収益性もない、税金だけがかかる個人所有の不動産が残されています。
    いまの人間は、死んで、いろいろなものを残します。生きているうちに、その残すものの整理をして、できるだけ後に続く人間に負荷をかけない…。この地球に負荷をかけない、そういう人生の終わり方を用意することができることに、気がつくべきときがきているといっていいのです。人間は、死すべき存在なのです。
    いまは少なくても、やがて、このアーストラストの考え方が、地球上で生きる人間にとって、普通のものになる日がきます。その意味では、きちんとスタートし、運営を誤まらなければ、このビジネスモデルの成功は、約束されているともいえます。
    ただ、スタートするには、人材が不足しています。それが、現実です。

    の報告:
  • アーストラスト2007vol.3

    はじまりの予兆

    もし、私が目覚める前の状況に置かれ、「最終知識」という書に出会ったとしたら、私は間違いなく、精神学というひとつのムーブメントに馳せ参じるだろうという確信がありました。私が精神学協会というものをスタートさせたのも、そうした私のような精神状況にある人間が、この日本には、かなりの数、存在するという認識があったためでした。
    そういう人物が、いつどういう形で私の前にあらわれるのか、実は興味しんしんだったのです。そして、この2007年6月にそうした人物が、私のもとを訪れ、精神学協会の正会員になられました。
    この現象が、何を意味するのか。
    私にとっては、この人物の持ってきたお父様の死出の送りをひとりでされた、とむらいの情報が、アーストラストのはじめのはじまりを指し示していたものでした。
    私は、人間の脳が、高いレベルの光の情報に反応するのと同じように、低いレベルの人間の死によっても消えることのないスピリチュアルな思いにも反応することをよく知っています。
    私の周囲にいて、多少なりとスピリチュアルな能力を開花させた人間なら、私が人間の霊、死者の霊というものと、コンタクトでき、その思いのエネルギーの処理をできることを知っています。
    私は、死者のたましいとコンタクトできるがゆえに、いま、日本で普通におこなわれている葬式というものに否定的です。どんなに盛大な葬式でも、死者のたましいは、導くものもなく、行き場を失い、そこにたたずむばかりだからです。
    仏教の葬式は、はじめから死者のために祈るということを想定してはいません。一神教では、形式的には、死者が天に迎えられることを神に祈りますが、その葬儀の場に、死者の霊のために会衆とともに、言葉としてとなえることを祈りだと信じているようです。
    アーストラストは、その名の通り、地球のためのトラスト(信託)を目標に、お墓のかわりに、森を買いましょうという、運動体であり、信託されたものとして、活動をする団体に、これから成長していくことが求められます。
    アーストラストの行動原理は、概念的には、人間活動の結果として、生み出してしまった、環境的な負の遺産を、少しでも減少させるものとして、これからの時代のひとつの潮流となるものですし、表面的な反対意見は少ないはずです。
    しかし、それは誰がやっても、いいものなのでしょうか。
    私は、精神学協会の発想でスタートするアーストラストには、ある絶対的な条件があると考えてきました。
    それは、死者のたましいとコミュニケートでき、その死者のたましいのための祈りを主導できる、祭主(マツリヌシ)とでもいうべき、光の人間の存在です。
    すくなくとも、私や「最終知識」における同行者などのレベルの能力を持てば、それらのことぐらいは可能になります。それが、快適なものであるとはいいませんが、能力があれば役割は担わなければならないでしょう。儀式として、生き残っている人間のための葬式など、必要はないのですが、死者のたましいの深い闇のエネルギーを、地上に放置する必要もないのです。
    私にとって、宗教によらない、そのための人間的な方法は、これから創造していかなければならない課題なのです。それは、アーストラストの出発の条件でもあります。
    冒頭に記した、私のもとを訪れた人物は、その父上を、自分なりの方法でとむらい、送ったということです。いまの日本では、ある種の信念がなければ、これらの行為はとてもできるものではありません。しかし、宗教によらない死者との別れには、強い希望があります。
    手さぐりではあっても、それは、もうはじまっています。
    この2007年。私は、精神学協会の一年間のプログラムの終了者に対して、創造的な脳をつくる、スピリチュアル・メソッドと、今回の話にあるような祭主(マツリヌシ)につながるような、スピリチュアルな能力開発のふたつの方向で、次のステージへの案内をしようと考えていました。その延長上で、いま、この祭主(マツリヌシ)のような能力も含めて、これらの脳の機能を使うのは、スピリチュアル・ビジネス・メソッドという概念が必要なのだと考えはじめています。
    このスピリチュアル・ビジネス・メソッドというのは、スピリチュアル経済研究という講座のテーマにつながります。
    これからはじまる、アーストラストのバックグラウンドには、そういう、考え方が必要なのです。
    私にあるははじまりの予感は、そういう全体のリンクです。
    ひとつひとつのピースがつながり、全体として、次の時代のスピリチュアルなムーブメントになっていく…。
    目覚めるひと、参加するひと、そのひとりひとりにとって意味あるトラストであるために、生者たちの脳の内部から、変化がはじまろうとしています。

    の報告:
  • アーストラスト2007vol.2

    21世紀のメメント・モリ(死を想え)

    百年生きたとしても、人間は、すぐに死に到ると感じるように、たましいの時計がプログラムされている…。
    私は、人間がすぐに死ぬものであることを忘れた結果、この種の一員であることが恥しくなるような、欲望の暴走がはじまったのだと考えています。
    仏教、とくに原始仏教といわれるような、2500年前のブッダの教えに近い仏教では、生きている人間のきたなさをくり返し教え、死んでさらにきたないものへと変質していく、生物としての本質から、形而上的に脱出しようとする思考訓練を、修行として伝承してきたと、いってよいでしょう。
    それは、欲望からの解放という、新しい欲望の発見につながりました。その新しい欲望を、私は悟りと呼びます。ブッダの到達した知の領域が、この宇宙との一体化、宇宙の知を共有する意識の層への人間レベルからの、突破であったということを、私は伝えられ、「最終知識」に記しましたが、それは、通常の人間が「悟り」という言葉から思い浮かべるものとは、本質的に異質なものなのです。
    「悟り」にも「小悟」から「大悟」に到る各段階があるという、今日、知られている普通の仏教的解説は、人知の限界を示しているということです。
    仏教は、人知です。ブッダは自らの能力で知った人間でした。だから、人知なのです。ただ、その人知は、当時の神々の知を超えるレベルのものだった…。
    そこで、ブッダは、人間の生と死のプログラム。極論するなら、いくたびの生をくり返しつつ成長していく「たましい」のプログラムの存在を見たのです。この学びを一回の生で終了させることを欲するものへの教えが、仏教の本質です。そこからは転生しつつ、人間を導くブッダの生まれ変わりなどという怪しい人間が宗教的指導者となるというようなストーリーは、本来生まれようがないのです。ところが、インドでは、ブッダは、ヴィシュヌ神の生まれ変わりのひとつの姿とされるような、解説があります。しかし、歴史をよく考えてください。ヒンドゥー教は、仏教に勝利して、いまのポジションにいるのです。それは、神々が、人間に勝利したことを示しています。
    何故か。
    神々は、くるべきときがくるまで死なず…。
    一方で人間は、いかに優れた能力を持つものでも、百年もまたず死に到る…。
    人間が勝利したとしても、それは一時的なものに過ぎません。この神々と人間の関係は、日本でも、よく知られていました。人間が盛んなときには、神々もこれをさけて、人間が定まったときには、神々がこれを撃つというルールです。
    それは「断じて行なえば、鬼神もこれをさく」というような言葉で伝えられてきました。それほど、人間には、ちからがあるわけです。その人間のちからが、ほぼ究極にまで達したのが、現代という時代です。地球の未来を、人間という生物の種が決めてしまうという、途方もない傲慢さに、多くの人間は疑念すら抱いていない時代。人間は、すぐに死ぬものであることを忘れてしまったかのように見えます。
    しかし、その見たくないものを見ないという、行動原理は、もうすぐ強制終了させられようとしています。
    日本の社会で進んでいる団塊の大量リタイア、少子高齢化の社会の未来というのは、まさに、死に向き合って生きる時代の到来を示しているのです。そこでは、死に方の責任が問われます。
    この2007年からのアーストラストのテーマは、その死に方です。その人間が人生をどう生きたかが、死に方であきらかになることを、もう、人類は正しく知るべきなのです。このプログラムには、価値観の転換も必要ですし、環境問題も、医療も、そして、それらを統合するビジネスレベルでの経済性も政治レベルでの取り組みも含まれます。
    その考え方を、これから、お伝えしていきます。
    もちろん、このプロジェクトは、このサイトや精神学協会のスタートと同様に、私というひとりの人間の意識から出た、構想ではありません。
    この方向という、明確な指示を伝えてきたのは、私をつかさどる存在であり、それに協力する神格があり、私は解説者、あるいは、いま生きている人間に対する提案者としてここにいます。
    これがアーストラストの序章です。次から、プログラムの解説がはじめられるでしょう。もう、みなさん想定されているとは思いますがご期待ください。

    の報告:
  • アーストラスト2007vol.1

    積哲夫の散骨者宣言

    これからの時代。宗教者によって、墓地にほうむられたいと考える人間は、ますます減少していくでしょう。
    「最終知識」を記述するプロセスで、私は何度も、これから宗教および宗教者によらない、人間の死の儀礼について、考え、問いかけました。その私への回答が、「火と水」です。
    これからのこのクニで、すくなくとも私の場合を想定したイメージがあります。木のひつぎのなかに、「最終知識」の本を胸に抱いて、生前に決めた衣装で、死者は収められます。一夜、ほんとうに身近な人間、家族に見守られ、翌日、そのまま火葬場に近親者と、「まつりぬし」(祭主)とでもいうべき、ある種の能力を持った祈りの主導者とともに向かいます。
    祈りのなかで、火にゆだねられ、死者の肉体は灰に環っていきます。
    その遺灰は、原則として、すべて、回収して、海または、山に散骨します。
    海は、そのまま、水。山であっても、雨が降り、やがて骨の成分は水に溶けて、地球の自然の循環に帰っていくというわけです。
    私は、人間には、生き方から責任が生じるように、死に方にも責任が生じることを知るべきなのだと、お伝えする役割を、これから担おうとしています。
    火と水。
    最後の審判の業火。それは火です。火の浄化です。それと同時に、このクニで想定されてきた浄化の基本は水です。世界でも、インドのガンジス川の沐浴。イスラムのモスクでも手足を清めるのは水。キリスト教でも、聖水は重要なものです。水の浄化です。
    この火と水は、同時に、火の試練、水の試練として、人間の神秘的能力の開発のプログラムにも、古くから取り入れられてきました。もちろん、錬金術における、火と水の重要性は、改めて語るまでもないことでしょう。
    近世の大本教において、火水の戦いという、神々の路線対立があったことを忘れてはなりません。
    このように、精神界と、火と水は、直結しているのです。
    精神エネルギーを感知できるようになれば、人間の死はケガレ以外のなにものでもないことがわかります。それは、生命という場に閉ざされていた闇のエネルギーの開放にほかならないからです。
    墓場は、その結果として、ケガレ地、ケガレの場となります。
    神社に墓場がないのは、当然なのです。また、このクニの仏教寺院の場合、人間の死後の名前にヒエラルキーをつけ、墓石の大きさを競わせ、仏壇という高価なものを各家庭に置いて、死後の世界の管理者のように振舞っていますが、人間の死霊は、職業的仏教者には、ほとんど接触することはありません。正しい仏教的修行は、霊的コンタクトを否定するところからスタートするのですから…。そのルーツからいって、仏教は死者にやさしい宗教ではないのです。そのため、仏教者は墓場の横に住んでも、ほとんど影響を受けることがありません。それは馴れの問題ではなく、知覚センサーの問題です。
    「最終知識」が完成したことで、人間霊との接触を制御してきた私の行動に変化が生まれます。これから、私は、私の祈りによって送ってほしいと希望する方のために、「まつりぬし」の役割をはたそうと考えています。また、私の主導によって、散骨をしてほしいと希望する方のために、祈りとともに散骨する役割もはたそうと考えています。
    人間の死にかかわることは、ケガレです。
    インドでは、低いカーストの仕事とされてきました。このクニもその影響を受けている面があります。しかし、これからの時代は、浄化力を持つ人間が、積極的に担うべき役割なのだと、私は伝えられています。人間でいる間に、私がすることで、後に続く人間に、自覚が生まれるはずだからです。
    私は、これから、散骨者になるという宣言をしました。この宣言は同時に、アーストラストの最初のテーマである、「墓のかわりに、森を…」という、この地をケガさずに去ろうとする人間の、死に方の案内にもなるはずです。

    の報告: