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まつりぬしの原点(アーストラスト)

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Archives of activity reports of Matsurinushi

活動する<まつりぬし>の記録

各地で活動している<まつりぬし>の
これまでの活動報告をまとめています

  • 8.死後の世界

    自然葬のようなかたちの死に方を受け入れられる人はいいのですが、墓に入らずお経もあげてもらえないなんて、それで亡霊にならないのだろうかと不安になる人もいるでしょう。そこでひとつ、ある思考実験をしてみましょう。死後の世界とは、あなたが生前信じたような世界であると。たとえば、あなたは日本に生まれ育ったとします。この国は東アジアのはずれにあり、大多数の大乗仏教と一部の密教、それに禅などがミックスされた仏教国でした。この国固有の神道というものがありましたが、神道では死者の霊を穢れとして排してきたので、霊を供養するという思想において仏教文化が1500年ほどその役割を担ってきました。そんな日本で育ったあなたは、お盆には墓参りをし、葬式ではお経をあげる様子を子供のころから見てきたし、当たり前のこととして体験してきました。このような文化のなかにいると、もし夜道で幽霊に出会ったとすると、あなたは思わずお題目をとなえますし、迷わず成仏してくださいと手を合わせるでしょう。さらに、ある日あなたは交通事故で命を落としてしまったとします。自分の死を受け入れがたく、思いを残してしまいました。あなたに線香をたむける人々、僧侶の読教を聞いて、あなたはようやく死を自覚します。しぶしぶ納骨された墓へ行き、ここが居場所かとあきらめます。それとも、もしかして三途の川を発見してそれを渡ろうとするかもしれません。お花畑の上を飛んでいるかもしれません。しかし、いずれにせよその世界はまさにすべて生前のあなたがイメージし、聞き及んでいた死後の世界のようです。「ああ!死後の世界とはやはりみんなが言っていたとおりの場所だった。」あなたは深く納得します。あなたの信ずる世界観によると、この死後の世界で救われるには、高僧の解脱供養、成仏供養、もしくは信頼すべき霊能者によって極楽浄土へ行かせてもらうしか方法はありません。ところで、アメリカ人、エジプト人、ユダヤ人も死ぬと仏教のお経をあげてもらえないと成仏できないのでしょうか。ケニア人、スウェーデン人、中国人はどうでしょう。釈尊が生まれ仏教発祥の地でありながら、仏教は衰退しヒンドゥー教徒が多くを占めるインドではどうなんでしょう。世界の人々は死んでも成仏できないかわいそうな人々なのでしょうか。生前は、他の国の宗教や文化を尊重するべきだという正論をなんとなく言っていたあなたですが、死後の世界ではその考え方は変わるのでしょうか。あなたと違う信仰を持つ人々はすべて中有(現世と浄土の間)にただよう不幸な魂となるのでしょうか。

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  • 7.自然葬という選択

    最近、自然葬と呼ばれるものが増えてきているそうです。火葬後の遺骨を砕骨し遺灰にして、山や川、海など自然のなかに散骨するのです。「沖縄の海にまいて欲しい」、「よく遊んだふるさとの川にまいてほしい」、「日当たりのいい丘にまいてほしい」などのひとりひとり違う要望を叶えてあげようという葬儀方法です。必要な手続きを踏み、節度ある散骨を行うことは法律上なんの問題もないそうです。なかには海外の衛星打ち上げの機会を利用した宇宙葬なる方法も比較的安価であるそうです。遺灰を専用のカプセルに入れて宇宙へ投げ出すわけです。どのような自然葬であれ、もちろん故人の生前の意志によるものが基本ですが、なぜこのような選択が増えているのでしょうか。暗いお墓にはいりたくない、自然に帰って行きたい、という願望かもしれないし、どうせ墓参りに来てくれる人もいないからという理由があってのことかもしれません。いずれにせよ、その心理の底辺にはアーストラストの考えに通じる部分もあるような気がします。「死んだら、静かに自然に帰りたい。それでいい。死んだあとの費用のかかる宗教儀礼やお墓のこと、それらの面倒な手間を子供や親戚にかけることを思うと安心して死んでいられない。」そういう気持ちでしょうか。結局、「納得」がここでも重要です。その自然回帰の願望を故人や遺族が「納得」できるかたちにした死に方が自然葬なのでしょう。少なくともかつての日本の仏教的な慣習に縛られていると、それは決してできる選択ではありませんでした。「散骨などすると成仏できずにさまようことになるぞ」と脅されそうです。それらの従来の宗教観による脅しよりも、本人と家族の「納得」が優先されるのが今の時代であり、人々が共感できるところではないでしょうか。ところで、不思議なことに、なかにはお寺のお墓販売のオプションとして散骨に協力するという、サービスを提供するお寺もあるようです。お経をあげてそのあと自然葬にするわけです。また、自然葬の増加にともなって、収益を得られなくなる寺社や霊園業者、葬儀社などは法律で自然葬を規制しようとしているともいいますが本当のところはわかりません。ただ言えることは、宗教に嫌気のさしてきた現代日本人にとって、自然葬はけっして理解不能な蛮行でも不道徳な行いでもなく、ひろく共感を呼ぶ葬儀方法となってきているということなのです。

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  • 6.先祖供養という文化の終焉

    テレビ番組である占い師が、「きちんとお墓参り行ってないでしょ!」と相談者を叱っていました。お墓参りに行っていないから家族に病気や事故などのよくない現象が起こるのだというわけです。よくある話です。本当にそうかもしれません。しかし、この忙しい現代社会に、「できれば毎月、それが無理なら正月、お盆、春秋の彼岸くらいはお墓参りへ行け」と言われて、人々はそう簡単に墓参りに行けるものでしょうか?それに先祖のお墓もひとつとは限りません。父方のお墓は北海道、母方のお墓は沖縄にあるかもしれません。「毎年じゃないけど、田舎に帰ったときはきちんと墓参りしてるよ。それで勘弁してくれよ。」というのが正直なところではないでしょうか。私は忙しかったらお墓参りはしなくてよいではないかと言っているのではありません。祖父母、もしかすると両親のお墓はあなたしか守る人がいないかもしれません。すでにある墓を放置せず花をたむけるのは立派な役目でしょう。私が言いたいのは、あなたも、あなたの兄妹や子供に同じように世話をやかせるのですかと問いたいのです。兄妹や子供がすぐお墓参りできるように、できるだけ家の近くにお墓を購入しようと苦労し、バスで片道1時間の霊園に墓地を一区画購入し、「せめて年に一度でいいから、墓参りには来てくれよ」とあなたの子供や兄妹に懇願するのですか。そして死んだらそのお墓にたたずんで、「あー、ひまだなー。子供たちがくるまでまだ半年もあるよー。」と愚痴をこぼすのですか。その期待していた墓参りに子供たちが現れなかったら、墓へ来るようにと枕元にたって嫌味を言うのですか。そのような存在になりたいでしょうか。すでに墓にいることを選択して亡くなった先祖の墓守はきっちりしなければならないと思いますが、私は自分の子供にそのような世話をかけたくはありません。こんなことを言う私は先祖をうやまっていないわけではありません。先祖供養と先祖をうやまうこととは違います。日本の先祖供養はおもに仏教的儀礼による霊をなだめる宗教行事です。先祖をうやまうことは、先祖に対する敬意を払い、自らが生を受けている意味を考え感謝する気持ちです。その違いを明確にすれば、先祖をうやまう気持ちを持ちつつも、先祖供養という文化を終えていくことも考えられないでしょうか。そしてこれまでも述べてきたように、現代の日本においてそれは決して突飛な思想ではなくなってきているのです。

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  • 5.どうでもよくなる戒名

    いまや戒名もその威厳を失いつつあります。同じ仏教のなかでも宗旨宗派によってかなり違ったり、戒名と呼ばないところ、戒名自体をつけないところもあります。戒名とは、戒律を守って仏の弟子となった証としていただくもので、本来出家の修行者に与えられたものですが、それがいつの間にか在家の修行者でも死後に戒名を与えられるようになったものです。平たく言えば、生前はそんなに真剣に仏道にはげまなかったので、死んでからは仏の弟子として頑張りますということです。しかし、生きているあいだに精進できなかった人々が死んでから修行できるんでしょうか。仏教では、死んでからでも頑張ればいいよという教えがあったのでしょうか。さて、仏教以外でも、神道では霊号などがあり、キリスト教ではカトリックなら洗礼名などがあります。ここまで聞いただけでも、8割以上が無宗教を自称するはずの現在の日本人にとっては不必要なものとわかります。しかし、戒名が必要な仏教徒にもその依頼をためらわせるほど戒名料は高くつきます。戒名は一般的に30~50万円と言われます。本来戒名は2文字だけですが、院号、道号、位号などと呼ばれるものが戒名に足されることで値段が高くなります。信士・信女、居士・大姉などが足されることが一般的でしょうか。芸能人など余裕のある方の戒名料で500万円以上する場合もあるそうです。おそろしい話ですね。葬式のときには、御経料と戒名料がお布施として必要になるわけです。なかにはどの宗旨宗派のお経でもあげてくれるお葬式専門の便利な僧もおられるようです。これらの現状を見て、「ありがたいありがたい、50万円で仏弟子になれちゃうのか」と感謝する人がいるでしょうか。まっとうな感覚では、お寺の暴利としか思えないのも自然なことだと思います。しかし、慣習と言うのは恐ろしいもので、人が亡くなるときに、そんなけち臭いことを言いたくないとか、世間体があるとかで、言われるがままポンポンと大金を支払ってしまうというのが実情でしょう。しかし今、もしあなたが無用な戒名をつけず、生前の名前で死後も通したいと思えばそうすればよいと思うのですがどうですか。先日、NHKの人気番組「その時、歴史が動いた」で、「マッカーサーを叱った男」というタイトルでとりあげられた白州次郎という剛毅の日本人実業家が紹介されていました。その彼が晩年亡くなるとき、遺言状にただ2行のみ、一、葬式無用、一、戒名不用、と書いてあるのがとても印象的でした。

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  • 4.四角四面のルールに縛られない

    お葬式やお墓の意義が急速に変化してきているというお話をしてきましたが、それでも多くの人がその変化に戸惑いや抵抗を感じていることでしょう。たとえ特定の宗教に属さない人であっても、これまで長く作られてきたお墓のスタイルを無知な個人が勝手な発想で変更してよいのだろうかと不安に思うのは想像に難くありません。しかし考えてもみてください。時代によってお墓のあり方は大きく違って当然です。たとえば日本のお墓のかたちのもととなる五輪塔のルーツは、釈迦が入滅後に弟子たちがその遺骨である仏舎利を納めるためにインド各地にたてたストゥーパと呼ばれる塔です。このストゥーパはお椀をふせたような基礎部分を中心に様々な装飾が施され、多様なかたちをしています。その後、高僧が亡くなったときなどにもストゥーパらしきものが建てられるようになり、やがて仏教が東アジアに伝播すると五重の塔などの寺院建築のモチーフとしても取り入れられ、それが墓石のかたちにまで反映されるようになったのです。ストゥーパを漢字に音写したものが「卒塔婆」(そとば)で、日本語の「塔」もこのストゥーパから来ていると言われています。日本では卒塔婆と言えば、五輪塔のかたちを模した細長い板でお墓の後ろに立てられています。墓石が家のために建てられたのに対し、個人の戒名などを書いて立てられました。そして卒塔婆や五輪塔のお墓のスタイルから変化して、シンプルな直方体にまでなったのです。現代では、土地不足もあいまって、都会のお寺はビル化してきています。その中のお墓はロッカールームのようなすがたです。最近ではインターネットでお墓参りができるお寺も登場し、クリックひとつで般若心経が流れるというお手軽さです。これらの現代的なお墓は、維持費用も安く、年に一度の墓参りには便利で機能的といった声もある反面、その情緒のなさに反発し、緑に囲まれた霊園墓地を求める声もあります。いずれにせよ、はじめにつくられたストゥーパから考えると大きな変化をしています。ここへきてギター型の墓があろうと、機関車型の墓があろうと大きな問題ではないと言えるでしょう。私たちのお墓に対する発想が、文化的、宗教的風習や、「納得」できない四角四面のルールに縛られているのではないかと考えてみることは決して無駄ではないでしょう。だってお墓自身がルールに縛られずに変化してきたのですから。

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  • 3.お墓の「記念碑」化

    既成宗教離れが加速して、かつては死者を成仏させたり天国に送り出したりする役割だったはずのお葬式がお別れ会となり、死者や遺族の「納得」が唯一の拠り所となっていくこの時代、当然同じ現象がお墓のあり方にも表れます。日本でもっとも一般的なお墓のかたちと言えば、たて型の直方体でしょう。このかたちは江戸時代に一般化したものと言われています。それ以前は仏教の宇宙観を表す五大要素の空・風・火・水・地を具象化した、宝珠・半円・三角・円・方形を積み上げた五輪塔のかたちが多かったようです。しかし形が複雑なため、一番下の方形のみで墓石とすることが定番化したようです。しかし、現代は違います。デザイン墓石なる言葉まであり、オリジナリティあふれる墓石が人気をよんでいます。ギターが好きだった兄の希望によるギター型墓石。鉄道ファンだった父のための機関車型墓石。墓参りにきた家族が座って談笑できるようにしたソファとテーブル型の墓石など様々です。そこにはかつてのような、仏教哲学にもとづいた極楽浄土への成仏願望などは影を薄めています。「そのほうが私がうれしいから」「きっと故人が喜ぶから」という「納得」があるのみです。お墓は死者の魂を供養するために仏教的ルールにもとづいて建てられ管理される存在から、故人を懐かしむ「記念碑」となったのです。その風潮は、現代の死生観から考えて当然起こり得ることだし、因習だけにとらわれた墓石のありかたを脱した意味では価値のあることだと思います。故人もお墓のデザインに「納得」するかもしれません。しかし、もし故人にアーストラストという概念を知る機会があれば、自分のためだけの墓を作ることに比べて、より「納得」度の高い死に方として選択できたかもしれません。というのも、自分の思い通りの墓石をつくったとしても、それが墓地であるという事実に変わりはないからです。もし、お墓が「家」中心の存在から、「個人」中心の存在へと移行していくとすると、「ひとりにひとつの墓」を必要とするようなことになり、これまでより多くの土地が必要となるかもしれません。 宗教的束縛から逃れて、自由にお墓をつくる発想にいたった現代の人々なら、もう一歩すすんで墓地を拡大しない方法も模索できると思いますがどうでしょう。

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